サワサワと木の枝がざわめく音が聞こえ、湖のほとりで樹に寄り掛かるようにして佇んでいたオスカーは軽く顔を上げた。
人目を忍ぶようにマントを羽織り、フードを目深に被った人影が足早にこちらに向かってくるのを目の端で捉えて、ほっと小さく安堵の溜息をつく。
その微かな物音を捕らえたのか、俯きがちに歩いてきたその人物はすっと顔を上げ、フードを頭から脱ぐとオスカーを見上げる。
「……上手くいったみたいだな」
ひと言呟くと、オスカーはゆっくりとロザリアに歩み寄る。立ち止まって彼を見つめていたロザリアは小さく頷いたが、何故か顔を上げようとはしなかった。
怪訝に思ったオスカーは、僅かに片眉をひそめて彼女の肩に触れる。するとその途端、ロザリアはオスカーに背を向けるようにして身体を捻った。
「ロザリア?」
オスカーが声を掛けて彼女の顔を覗き込もうとする。が、今度はあからさまに顔を背けてこちらを向こうとはしない。
しかし、彼女の肩に触れたことで、オスカーは何故彼女がこちらを向こうとしないのかを悟っていた。そして小さく溜息をつく。
「……意地っ張りだな」
「……っておいてくださ、いっ……」
「そんなに泣き顔を見られるのがいやか?」
言うとオスカーは、ロザリアの肩に手を乗せていた手に力を込め、無理矢理彼女をこちらに向けさせる。そして両の瞳に涙を溢させながら唇を噛んでいるロザリアを睨んだ。
「君は、いつもそうやって自分の感情を無理矢理押さえ込もうとする。……何故もっと素直にならない? 悲しいのなら素直に泣けばいい。我慢する必要がどこにあるんだ?」
「だっ……て、わたく……し、わかっ、わかっていた……は、ずですもの。あの子を自由にするって……こ、とが、何を意味するっ……のか……をっ。なのに……な、んで……」
『友達』と呼べるような人間を、今まで持ったことのなかったロザリアが初めて得た友人。それがアンジェリークだった。
だからこそロザリアは、彼女のために何かしてあげたかった。彼女の笑顔を取り戻したかったのだ。
が、アンジェリークの幸せを願った結果の今回の行動、つまり女王位から降ろしてランディと共に行かせることは、彼女がこの聖地を去るということで、自分とは永遠の別れになるということを意味している。
それもまた、ロザリアがすぐ行動に移らなかった原因の一つである。いや、むしろそれこそが、ロザリアの一番恐れていたことだったのかもしれない。
初めて手にした大事なものをなくしたという事実は、ロザリアが予想していた以上に彼女に衝撃を与えていた。
振り返って微笑んだアンジェリークの笑顔が、あの時は満足感しかもたらさなかったあの笑顔が、今になって激しい喪失感へと変化し彼女の胸を締めつけていた。
泣くつもりなどなかったのに、止めどなく溢れ出る涙をロザリアは止めることが出来ないでいた。そしてそんな顔を、誰よりもオスカーに見られることを恥じているというのに、肩を掴まれた状態では顔を背けることが精一杯だ。
「覚悟……したのに。どう、して……涙が、で、てくるのか……わかっ、わからないんです。だから……み、見ないでっ……」
オスカーは一瞬言葉に詰まったが、しばらくして重い溜息を吐きだした。
「……呆れたな」
そしてロザリアをそっと抱き寄せ、震えている背中をまるで子供をあやすように軽く何度も叩いた。
「理屈と感情は違うだろう? 頭でわかっていたって出来ないことなんか沢山あるじゃないか」
「……覚悟しろって……おっしゃったのは、貴方ですわっ……」
「ああ、確かに言った。けどそれは、感情を押さえつけろって意味じゃない。別れるのが辛いのは当たり前だ。それが、初めて出来た心許せる友人ならなおさら、な」
「……」
「辛かったら素直に泣けばいい。俺は君を馬鹿にしたりしないし、慰めてやることだって出来る。いいか? 俺が言った覚悟ってのは、その後だ。自分のした事に最後まで責任を持つ覚悟が出来ているのか、って訊いたんだぜ?」
「……出来ています」
オスカーの胸に顔を埋めてしゃくり上げながら、それでもロザリアはきっぱりと言い切った。
その答えにオスカーは満足そうに軽く微笑むと、ロザリアの身体をゆっくり押し戻した。そして、唇をぎゅっと噛みしめながらこちらを見上げているロザリアの目元に溢れている涙を指でそっと拭ってやった。
「その覚悟が出来ているなら結構だ、補佐官殿。なら、今は我慢することはないぜ。誰が見てるわけじゃないから、思いきり泣くといい」
オスカーの指が涙を拭うたび、くすぐったそうに顔をしかめていたロザリアは、彼の言葉を聞いてほんの少しだけ笑った。
「誰も見ていないって……貴方が見ているわ」
「じゃあ俺のことは、森の精か何かだと思えばいいだろう? 月明かりの姫君の嘆く声に導かれて姿を現わした、夜に遊ぶただの精霊だって思えばいい」
「……随分と逞しい精霊さんですこと」
くすっと笑うとロザリアは手を上げ、自分の頬に添えられていたオスカーの手にそっと触れた。そして顔を上げると、オスカーを見上げて小さく微笑んだ。
「ありがとう……本当に。あの子の笑顔を取り戻すことが出来たのは、貴方のおかげよ、オスカー」
「……」
彼女の言葉にオスカーは一瞬押し黙った。が、すぐに呆れたように苦笑したかと思うと、次の瞬間ロザリアの手首を捉えて引き寄せ、驚く彼女の唇を奪った。
「……んっ」
ロザリアが苦しそうに呻くと、オスカーはほんの少しだけ唇を離した。そして抗議の目を向ける彼女に顔を寄せたまま、擦れた声で囁く。
「……俺はどれだけ待てばいいんだ?」
「なにを……っ」
オスカーの問い掛けの意味がわからず、ロザリアは小さく叫んだ。が、その言葉の続きは、オスカーの接吻に吸い込まれてしまう。
「口を開けばいつも君は……陛下の事ばかりだ」
吐息の混じった彼の言葉が、微かに離れた口元から零れた。
「いつになったら、君のこの唇は……俺の名だけを呼んでくれるようになる? 俺が欲しいと言ってくれる?」
アンジェリークに嫉妬するなんてどうかしている、と思いながらも、オスカーはもう自分を止められなかった。
ロザリアの唇は柔らかくて甘やかで、唇を僅かに離すたびに漏れる彼女の吐息が耳に届くと身体中が痺れた。
ロザリアが時折オスカーの腕を爪を立てて掴んだ。それは明らかに彼の行動に抗議をしている為だったのだが、その痛みすらも今はオスカーにとって甘い誘惑でしかなく、彼は夢中で彼女の唇を貪った。