永遠の休暇

(8)

カティスのワインは、色は濃厚だが味はさっぱりとしていて、酒の類いはあまり得意でないランディの口にもよく合った。

仄かに口中に広がる甘い香りは、聖地を離れて新しい世界にたった一人で飛び込むランディの不安な気持ちを軽くしてくれた。

ほんのりと頬を染めるランディをオスカーは黙って見つめていたが、やがて窓の外に視線を向けて呟いた。

「雨は……止みそうにないな」

「……そうですね」

聖地に降る雨。

それは天候を全てコントロール出来るこの地においては、ある意味異常気象である。

一週間ほど前から、止むことなく降り続く雨。

どしゃぶりになるわけでもなく、途絶えるでもなく……ただ、しとしとと降り続く雨。

「まるで……涙みたいだとは思わないか?」

オスカーの声は決して大きくはなかったし、何かを糾弾している訳でもなかった。しかしその言葉は、まるで胸を鋭利な刃物で突き刺されたような痛みをランディに与えた。

「……どういう意味ですか?」

それでもかろうじて、彼は返事を返した。が、それには答えず、オスカーは視線を逸らしたまま口を開いた。

「ランディ」

「はい」

「もう一度訊くぞ。お前、本当に何か忘れているものはないのか?」

「……え?」

オスカーは背もたれから身体を起こし、ワイングラスをテーブルに乗せると、膝の上で手を軽く組み合わせた。

「一番大切なものを忘れてるんじゃないか?」

「……」

「ここを出ちまったら、もう戻ってこれない。それがどんなに大切で大事なものであったとしても、もう取り返しはつかない。……それでもいいのか?」

そう言うと、オスカーは顔を上げてランディをじっと見つめる。

「いいか。もう……二度と会えなくなるんだぜ?」

オスカーが何を言いたいのかわかったランディは、一瞬息を詰めた。だが、すぐに呼吸を取り戻すと、真っ直ぐにこちらに向けられている蒼い瞳に寂しそうな笑みを返す。

「……そうですね。ここを出てしまえば、もう二度と手に入らなくなります。それが……どんなに大切で大事なものであっても」

「わかっているのに、このまま黙って出ていくのか?」

「そうする以外、俺に何が出来るっていうんですか?」

ランディはグラスをそっとテーブルに戻し、すっと立ち上がると窓辺に向かって歩き出す。そして暗く淀んだ空から降ってくる雨を見ながら、濡れた窓ガラスをそっと指で撫でた。

「確かに俺は……それを大事に守っていきたいと思いました。けどそれは……いいえ、彼女は、すでに俺だけのものじゃないんです」

「全ての存在の為に彼女はあるのだと?」

オスカーの問いかけに、ランディは微かに頷く。

「確かにそうかもしれない。だが、俺に言わせれば、それはただの言い訳だな」

軽く頭を掻きながらオスカーは呟いた。

「お前はあの時、彼女の為だから、と言った。彼女は女王候補だから、女王になることこそが彼女の幸せなのだと。だから彼女は女王になった。お前の思いに答えてな」

「…………」

「彼女を女王にしたのはお前なんだ。お前が彼女の背を押し、彼女を高みへ昇らせた。誰も並び立つことが出来ない、至高で、そして孤独な存在へと、お前自身が彼女を押し上げたんだ」

オスカーは立ち上がるとランディの側に歩み寄り、彼の肩を乱暴に掴むと強引にこちらを向かせる。

「自分でそうしておきながら、今さら彼女は女王だからと言い訳する気か? 女王としてではない彼女の、生身の女である彼女の幸せを考えたことがあるのか?」

オスカーに睨まれたランディは息を飲んだ。が、次の瞬間、ランディはぎゅっと拳を握りしめ、顔をしっかりとオスカーに向けると険しい表情で彼を睨み返した。

「オスカー様に……何がわかるんですか?」

「なんだと?」

「オスカー様は、俺に勇気がないとおっしゃりたいのでしょう? 彼女を独り残して独りで出て行く俺を卑怯者だと。けど、オスカー様はなにも……なにも知らないじゃないですかっ!」

ランディはそう叫ぶと、肩にかけられたオスカーの手を強引に引きはがして、彼の側を離れた。そして執務机にどんと腕を付くと頭を垂れ、微かに身体を震わせ呟く。

「謁見の間で彼女に会うとき。聖殿の廊下でふとすれ違ったとき……何度、彼女の柔らかな髪に触れたいと思ったか。哀しげな表情を浮かべているとき……何度、抱きしめたいと思ったかっ!」

「ランディ、お前……」

「俺だって普通の男ですっ! 湖で無邪気に遊ぶ彼女の笑顔を、何度自分だけのものにしたいと思ったか。それを押さえるのが……どんなに辛かったか。オスカー様、あなたにわかりますかっ!?」

 

それは拷問のような日々だった。

側にいても触れ合えない。二人で話すことはおろか、見つめあうことさえ許されない。それが女王となったアンジェリークと、守護聖であるランディに科せられた鎖だった。

ランディは顔を上げると、一瞬信じられないほど強い眼差しでオスカーを見つめたが、すぐにふっと視線を逸らす。

「彼女の輝く翼を折ってはいけない。彼女の側にいられるだけで幸せなんだって。女王としての彼女を、望みを叶えた彼女をただ見守っていられればそれでいいんだって。俺は、毎日毎日、ただそれだけを自分に言い聞かせてっ……」

 

ランディの肩が微かに震えているのをじっと見つめていたオスカーだったが、やがてふうっと息を吐きだすと、彼の側を離れて再びソファに腰掛けた。

「……すまなかった」

頭を軽く抱えるようにして俯くオスカーを見下ろし、ランディもようやく冷静さを取り戻したらしい。オスカーを見つめる目元に穏やかさが戻ったかと思うと、軽く首を振った。

「……いいえ。俺の方こそ取り乱してしまって……すみませんでした」

その言葉に、オスカーはゆっくりと身体を起こした。するとランディは、恥ずかしそうな、そして悲しげな笑みを浮かべてオスカーを見つめていた。

 

お前、自分が今どれだけ辛そうな瞳をしてるか……わかってるか?

それでもお前は……そんなにも強い想いを残したままでお前は……独りで行くつもりなのか。

俺ならば……押し殺したりはしない。想いのたけを相手に伝え、もし二人の邪魔をするものがあるのならば……。

たとえそれが何であろうとも………粉々に壊してやる。

喉元まで出かかった言葉を飲み込み、オスカーはぎゅっと拳を握りしめた。ランディと自分とでは、置かれた立場が違うと気がついたからだ。

お互いに相手を想う気持ちは同じでも、想いを寄せる相手の立場がまるで違う。オスカーが幸せにしたいと想っている女性は補佐官だが、ランディの想い人はこの世界全てを導く女王なのだ。

「……ランディ」

「……はい」

オスカーは顔を上げ、今はその力を失った後輩を見上げて薄く笑う。

「お前は強いな」

言われた言葉の意味を計りかね、困惑するランディに向かって、オスカーは何かを吹っ切ったような笑顔を浮かべた。

「ここに来てよかったぜ。お前と話せて、いや……お前の本当の気持ちが聞けてな」

「オスカー様……」

だが、オスカーはすぐに表情をすっと引き締め、ランディの目を真っ直ぐに見つめて呟いた。

「今夜、庭園の東屋に行け」

「え?」

「いいか、これが最後のチャンスだ。今夜十二時……そこに、お前の一番大切な忘れ物が届けられているはずだ」

 

ランディの屋敷を出ると、外はすっかり暗くなっていた。オスカーはようやく雨が上がった空を見上げてほうっと溜息をつく。

「涙雨……か」

女王の感情のゆらぎで振りだした雨が上がったということは、つまり彼女の心が平安を取り戻したということ。

「……話したんだな」

ぽつりと呟くと、オスカーは顔を空に向けたままそっと目を閉じた。

しばらくそうやって佇んでいたが、やがてぐっと拳を握りしめたかと思うと、ゆっくりと目を開ける。そして正面を見据えると、無言でマントを肩にかけ直して歩き出した。