「で、今日は? どなたのところへ行ったの?」
口元をナプキンで拭き取りながら、ロザリアはアンジェリークに問いかけた。
「えっと…ね。最初に会ったのはマルセル様だったわ。花壇に新しい花の種を植えようと思ったら、それは春に蒔く種だから少し早いってお店の人に言われてしまったんですって。それからね、廊下を歩いてたらオリヴィエ様が向こうからちょうどいらっしゃって、新春の新色が手に入ったから試させてあげるっておっしゃるの。でね、オリヴィエ様のお部屋に行って、とっても綺麗なパールピンクのリップを塗ってもらっちゃった。それから、それから……」
「アンジェリーク。私はそういう事を訊いているのではないわ。どなたに育成を頼みに行ったのか、と訊いているの。昨夜アドバイスしてあげたでしょう? 今のエリューシオンに足りないのはどの力かって」
ロザリアは喋り続けるアンジェリークの口を冷ややかなひと言で制し、スプーンをかちゃんとソーサーに戻してティーカップを持ち上げ、口元へと運ぶ。
「うん。昨夜はありがとう」
「お礼はいいわ。この私がライバルだなんて、少しくらいハンデをあげなければ可哀相ですもの。で、ちゃんと頼みに行ったんでしょうね、クラヴィス様に」
「………うん」
「なぁに、その気のない返事は。ちゃんと育成をお願いしますって言ったの?」
「………言えなかったけど、クラヴィス様はわかったっておっしゃってた」
今まで目をきらきらさせながら午前中の出来事をあれこれ喋っていたアンジェリークだったが、ロザリアがクラヴィスの名を出した途端その緑の瞳が曇り、俯いて手元のティースプーンをもて遊び始めた。
その仕草を黙って見つめながらロザリアは考えた。
いつからだろう。クラヴィス様の名をだすとアンジェリークがこんな顔をするようになったのは。
他の人の事をあれこれ喋っている時の彼女は、本当に生き生きしている。大きな瞳を零れんばかりに見開き、楽しくて仕方がないといった満面の笑みを浮かべているというのに。
ティースプーンをかちゃんとテーブルにはじき飛ばしてしまい、アンジェリークは慌ててそれを手に取るときゅっと両手で握りしめる。そしてスプーンに映った自分の歪んだ顔を見つめ、またハァと軽いため息をついた。
いつからだったかしら。クラヴィス様の名前を聞くと、その姿を思い浮かべると、ため息が出るようになったのは。
きゅうっと胸を締めつけられるみたいに苦しくなって、息が出来なくなって、ついつい出てしまう大きなため息。
私……クラヴィス様に……会うのが恐い。あの深い紫の瞳にじっと見つめられると胸が痛くて、とっても痛くて……泣きたくなっちゃうんだもん。
どうしてあんな寂しい目をしてるの? なにがそんなに悲しいの?
私まで切なくなって、悲しくなって……だから恐いの。なのにどうして……あの瞳から目を離せないの?
「クラヴィス様」
コンコンと執務室のドアを遠慮がちに叩くと、返事を待たずにリュミエールは扉をすっと開けた。どうせ返事を待ったところで、一時間たとうが丸一日たとうが返事など戻ってこないことをリュミエールはきちんと心得ていたからだ。
「どうした?」
案の定クラヴィスは鬱陶しそうにひと言呟くと、またすっと視線を手元のカードへと落した。
「いつものお時間ですから。……ご迷惑でしたでしょうか?」
「……そうか。もう…そんな時間か」
「はい」
リュミエールは軽く頷くと、いつもの定位置(部屋の隅に置かれた椅子)に腰掛けると、ゆっくりとハープの弦を細い指先でつま弾き始めた。流れる水のような緩やかな調べが、暗い執務室の中を不思議な優しさで包んでゆく。
クラヴィスはふと立ち上がると、足音もたてずに窓辺に歩み寄り閉ざされたカーテンを開いた。
リュミエールのいう通りいつの間にか外は夜の帳が下りていて、昼間の輝く太陽の代りに、しっとりとしたほの明るさを月は地上へと投げかけている。その月を見上げながらクラヴィスはふと呟いた。
「リュミエール」
「はい」
ハープを弾く手を休めず、リュミエールはこれも低い声で答える。
「闇は……今夜こそ私を連れて行ってくれるだろうか…」
「え?」
「輝く光を、私から取り上げ連れ去ったはずなのに。何故また…光を私の前に連れてきたりするのだ……?」
「…クラヴィス様」
いつの間にか手を止め、リュミエールは悲しげに顔を上げてクラヴィスの後ろ姿をじっと見上げた。クラヴィスの大きな背中は、今にも闇に溶けて消えてしまいそうにリュミエールには思えて、ハープを握る手につい力がこもってしまう。
「……リュミエール」
ふいにクラヴィスは振り返り、はっと驚くリュミエールを見下ろして囁いた。
「は、はい」
「続きを…聴かせてくれないか」
ふっと軽い笑顔を浮かべるクラヴィスに、リュミエールはほっと安堵の息を漏らす。そしてこくんと軽く頷くと再びハープを奏で始めた。
いつからだろう。あの金色の髪をした少女が部屋を訪れてくる事に苦痛を感じるようになったのは。
あの時と同じように突然目の前に現れたかと思うと、あの人と同じように……私の心に入り込んできた少女。
そう自覚するのにそれほど時間は必要なかった。……そしてその頃から、あの少女に会う事が辛くなった。また、あの時と同じように……私の前から消えてしまうのではないかと。
あの人は太陽だった。>明るく輝き、周り総てを照らしてひときわ輝く太陽。
そして太陽は……私の元から去った。私は……闇だから。闇と太陽は、共にいる事は出来ないから。
だが、光はまた私の前に現れた。
今度は月。>僅かだが、周りを柔らかく包み込み安らぎを与える月の光。
月は確かに闇の中でこそ輝く。だが……私はあの月と共にある事が出来るのだろうか。また……あの時と同じように、いつの間にか私の前から去るのではないのだろうか。
……闇は、なぜ私を連れて行ってはくれないのだろう。光を与える気がないのなら、なぜ幾たびもめぐり合わせたりするのだ。
もう……あんな痛みを味わいたくはないのに。
リュミエールを聖殿の入り口まで見送り、クラヴィスはその足で王立研究院に向かった。昼間アンジェリークに頼まれた通り、エリューシオンへ自分の力を送るためだ。
王立研究院の扉がしゅっと開くと、中で計器類をチェックしていた夜勤の職員が立ち上がりクラヴィスに会釈する。その間をゆっくりと通りすぎると、クラヴィスは「育成の間」と呼ばれる部屋へと向かった。すると職員の一人が慌ててその後ろ姿に声をかける。
「あ、あのクラヴィス様っ……」
しかしその声が彼に届くことはなく、クラヴィスの身体を飲み込んだ扉は低い音をたてて閉じてしまった。