虹色恋模様

(9)

ぱたぱたとこちらに駆けてくるらしい足音を耳にして、文若は渋面を浮かべつつゆっくりと顔を上げた。

すると予想した通り扉が開くと花が肩で息をつきながら部屋の中に入ってきたので、文若は細い目を更に細くして口を開いた。

「随分と時間がかかったな。……その割に返された書簡を持っているわけでもなさそうだが、いったいなにをしていたのだ?」

しかし花はその問いには答えずに文若の方へ歩み寄ると、怪訝そうに眉をひそめる文若にいきなり抱きついた。

「なっ、なにを!?」

度肝を抜かれて声を裏返させる文若だったが、花はそんなことはおかまいなしといった風で、文若の首に腕を廻してぎゅっと抱きついたまま思いを吐露した。

「文若さん、文若さん……会いたかったです。すごく、寂しかったんです……」

「ど、どうしたというのだ? 昨日も今日も、こうして会っているではないか」

目を白黒させてようやくそれだけ言う文若に、花はしがみついたまま何度も首を振った。

「だって文若さん、昨日帰ってきてくれなかったじゃないですか……今日も帰ってこないつもりなんでしょう? だから私……わた、しっ…」

のしかかるように花に抱きつかれて混乱していた文若だったが、彼女の言葉を少しずつ脳が理解しはじめてようやく、大きく息を吐いた。

「そうか……寂しい思いをさせてしまったようだな」

言いながらあやすように花の背を撫でると、彼女は身体を丸めるようにして文若にさらに身体を摺り寄せた。

その様子が可愛らしくて愛おしくて、文若はそっと目を伏せると花の髪を梳くように撫でた。

「私とて、おまえと片時でも離れるのは堪え難い。だがそれもこれも、おまえと正式に夫婦になるためと思えばこそだ。だからおまえも、もう少しだけ辛抱して……」

なんとか花を諭そうと文若が語りかけると、花は彼の腕の中で駄々をこねるように首を振った。

そして顔を上げると文若を潤んだ瞳で見上げ、彼が思わず息を飲む前で口を開いた。

「だったら、わたしにももっと協力させてください。文若さんのお仕事をもっと手伝わせてください。ひとりで待っていろなんて、寂しいことを言わないでください」

「花……」

「わたしだけなにもしないで、文若さんに全部押し付けて……そんなの夫婦じゃないです。一緒に生きていくっていうのは、二人でなんでも分かち合うことだって思うんです。だから頼りないかもしれないけれど、もっとわたしにも頼ってください。わたしは……文若さんの奥さんになりたいんです」

花の言葉に、文若は改めて彼女をまじまじと見つめた。

彼女の言い分は、この世界の夫婦の有り様とは違っている。妻は夫の決めたことに大人しく従い、黙って家を守っているものだ。

しかしそんな常識を守ろうと必死だった自分よりも、何故だか花の言う夫婦の概念のほうが自分たち二人には似合うように思えた。

花は文若のことを想い、自身の過去を全部捨ててこちらに残ってくれた。同じことを強いられた時、果たして自分は素直に受け入れられるだろうか。

そう考えれば彼女の下した決断はとてつもなく勇気がいることであり、その未来を守ることは文若にとって必ずなし得なければならない使命のように思えていた。

だからこそ文若は、いささか強引に思えるほどの性急さで彼女の居場所を確保しようとしたのだ。

しかしそれがために、花に不安や寂しさを感じさせたのだとしたらまったくの本末転倒であるはずだ。

そしてそんな簡単なことにも気がつかず、花が想いを吐露してくれたおかげでようやく思い至った己の未熟さに、文若はふたたびため息をついた。

「すまなかった…」

心からの謝罪の言葉を告げると、花はゆっくりと首を振って答えた。

「いいえ、謝らないでください。わたしがどんどん我が侭になっちゃっているだけなんですから。でも文若さんには、もう何も隠しごとをしたくないから…我が侭とか泣き言とか、そういうみっともない部分も全部知って欲しいんです。だって、わたしたち結婚するんですから…」

花の言葉に、しばらく文若は沈思していた。やがて彼女の身体を改めて抱き寄せ、失笑を浮かべながらため息をついた。

「まったく……私も大概、おまえに毒されたようだ」

「文若さん?」

小首を傾げる花の髪を撫でた文若は、離れがたい様子を見せる少女の身体をそっと突き放した。

そしておもむろに執務机に向かい直すと、しゅんとしょげる花をちらと見上げた。

「いつまでも惚けているな。おまえが戻ってこない間に処理した書簡が、あんなにあるのだぞ。早く届けて来てくれ」

朝と同じ事務的な物言いに戻ってしまった文若の態度に、花はいまにもべそをかきそうな表情を浮かべた。

しかし次に文若の口から漏れた言葉に、ぱっと顔中を喜色に染めた。

「この一山を片付けたら一緒に帰ろう。そうして昨夜話せなかった分も、眠るまで話をしよう」

「文若さん……」

嬉しげに声を震わせた花だったが、すぐに目元をごしごしと擦ってから拗ねたように唇を尖らせた。

「でも話したいことがいっぱいありすぎて、今夜だけじゃ足りないです」

「ならば、明日の夜に話せばいい。明日で足りなければ、明後日も明々後日もその先も二人で話をしよう。私たちはこれからずっと、共に歩む道を進むのだから。……夫婦として、な」

言ってゆっくりと文若が花の方へ目を向けると、彼女は口元を手で覆って瞳を嬉しげに震わせていた。その様子に満足げに笑んでから、文若はふたたび真顔に戻ると書簡に視線を落とした。

「わかったら早く仕事に戻れ。共に過ごす時間は長いが、仕事に割くべき時間は無限ではないのだぞ」

「はいっ!」

快活な声で答えた花は文若に満面の笑みを向けてから、くるりときびすを返して積み上がった書簡の山に手を伸ばした。

おわり