「花様、旦那様よりのご伝言を預かってまいりました。こちらに書き付けた書類を使いに渡すようにとのことにございます。それと、今夜は戻れそうにないから先に休んでいるように、とお伝えするよう申しつかっております」
門の開く音にいそいそと駆け出して玄関に向かった花だったが、文若から使いを頼まれた従者の言葉を耳にした途端、不安げに表情を曇らせた。
「文若さん、今日は帰ってこないってことですか?」
「はい。そのようにお伝えするようにと」
「……そう、ですか」
当たり前のようにうなずかれ、花は口元をへの字に曲げて下唇を噛みしめた。それが今にも泣き出しそうな顔に見えたのか、従者の青年はぎょっとしてまばたきを数度繰り返した。
「あ、あのう…?」
不安げな問いかけにぴくりと肩を震わせた花は、怪訝そうな表情を浮かべる青年に精一杯の笑顔を向けながら文若の指示が書かれた竹簡を受け取った。
「あ…ご、ごめんなさい。書類を持って帰るんですよね?」
巻かれた竹簡を開いた花は中身に視線を落とし、それから顔を上げて目の前の青年に寂しそうに笑いかけた。
「いますぐ用意しますから、もう少しだけ待っていてください。それから文若さんに、あまり根を詰めないようにしてくださいって、伝えてくれますか?」
無理をして笑っているだろう花の様子があまりに気の毒だったからか、宮殿から戻った従者は困ったように眉をひそめ、それから懸命に口元に笑みを浮かべた。
「はい、お伝えしておきます。それと…旦那様は今日明日と泊まり込めばあらかた片付くから、そうすればいくらか時間も取れるだろうともおっしゃっていましたよ」
気落ちしているらしい花を前にして、彼なりに精一杯気を使ったのだろう。しかし今夜だけではなく明日も泊まるつもりだと暗に知らされた花は、憂いをなくすどころかさらに寂しげに眉尻を落とし、ついには深いため息をついた。
「そう…明日も……」
花のしおれた表情に青年はようやく自分の失言に気がついたらしく、ふたたび大きく目を見張ると焦ったように身を乗り出した。するとその青年の後頭部を、背後から近づいた者が盆でしたたか打ち付けた。
「こんのおしゃべりが!」
「あいたっ!」
呻いて頭を押さえた身体を丸めた青年の背後で、料理人の男は腰に両手を当てて仁王立ちをしていた。
「まったく、よけいなことをべらべらと。お前さんは文若様に言われたことだけを、花殿に伝えればいいんだよ」
「い、いててっ…。なんだよ、あんたこそ料理人なら、おとなしく厨房にいりゃあいいだろ…」
涙目になって口を尖らせる青年の前で、料理人の王は鼻を鳴らして腕を組んだ。
「あたしはね、文若様から花殿のお世話を頼まれてるんだ。宮中にいた頃からお二人を存じ上げてるからと、文若様はたいそうご信頼くださってね。だから花殿を泣かせるような輩は、このあたしが絶対許さないよ!」
「おじさん…」
気炎を吐く王を前にして、花は寂しそうな表情を引っ込めて驚きに目を丸くしていた。そんな彼女にちらと視線を向けた王は、青年へのそれとは打って変わった優しげな表情を浮かべて微笑んだ。
「花殿、寂しいかもしれないけれど、これも文若様のお仕事だからね。だから、もう少しだけ辛抱しておあげ」
「……はい」
こくりとうなずいた花は照れたように微笑んでから、なおも頭を擦っている青年を気の毒そうに見おろして小首を傾げた。
「すみません、取り乱してしまって。すぐに必要な物を用意するので、少し待っていてくださいね」
「は、はいっ」
青年がようやく身体を起こすと、花はまたにこりと笑って王の方へ視線を向けた。
「おじさん、すみません。私が準備している間、この方になにか飲み物を差し上げてくれませんか?」
「もちろん心得てるさ。ほれ、白湯を持ってきてやったから、まぁそこに腰掛けて一息つくんだね」
言って卓の上にすでに準備していた椀を指差した王を、青年は振り返って思わず口を尖らせた。
「そういうの、殴るより先に言って欲しかったんだけど…」
「お前さんが花殿をいじめたりしなけりゃ、最初からそう言ってたよ」
「だから、いじめてねぇって…」
がっくりと肩を落とす青年と、悪びれたふうもなく胸をそびやかす王の二人を見比べた花は、思わずくすりと笑みをこぼすとおもむろにきびすを返した。