「…………ふへぇ?」
ゆっくりと目を開けた鈴花は、視界に広がる天井の染みをしばらく見つめてから、間の抜けた声を出した。
そして、もぞりと身体を動かして起き上がろうとした途端に、顔の上にべちゃっと濡れた手ぬぐいが乗せられ、反射的に首をすくめた鈴花の耳に、聞き慣れた男の声が響いてきた。
「いきなり動くな。もうちっと寝てろ」
「……原田、さん?」
顔に乗っている手ぬぐいを額の方へずらしてほんの少し目を開けると、布団の横で胡座をかいていた原田が少し身を乗り出してにっと笑った。
「心配すんな、軽い霍乱だってよ」
「か…くらん?」
ぼそりと呟くと原田は軽くうなずき、眉を僅かにしかめて鈴花の顔を覗き込んだ。
「いわゆる暑気あたりだ。おまえ、水も飲まねぇで、まっ昼間ずっと歩き回ってただろ?」
言われて鈴花は視線を天に向けたが、すぐに思い当たることがあったのか「……あ」と小さく呟いてから、ばつが悪そうに視線を泳がせた。すると原田はため息をつき、右手を上げると自分の頭を軽くかいた。
「汗で身体ん中の水が飛んじまって、それで心の臓がおかしくなって、ぶっ倒れたんだとさ。ほれ、もちっと水飲め」
「……はい」
鈴花がうなずくと原田は、布団の隣に置いてあった盆から水差しを取り上げ、温めの白湯を湯飲みに注ぐと、上体を起こした鈴花にそれを手渡した。そして湯飲みを口に運ぶ彼女の横顔をじっと見ながら、もう一度安堵のため息をついた。
「ま、しっかり休めば回復するそうだから、今日はこのまんま寝てろ。……しっかし、いきなり目の前でぶっ倒れたときゃ、肝を冷やしたぜ」
「……すみません」
二人が縁側でだらけているのを怒鳴ったくせに、その自分が暑さに負けて倒れてしまったのだから、なんとも居心地が悪い。
うつむき加減で白湯をすすり続ける鈴花をしばらく見つめた後、原田はふらりと立ち上がると部屋の入口に歩み寄り、障子をゆっくりと開けた。
すっかり日が落ちたおかげか、部屋の中を涼しい風が吹き抜け、その心地よさに鈴花は思わず目を閉じた。
日中はまだまだ暑いけれど、こうして夜のとばりが落ちる頃に吹く風が肌寒くなってきたのを感じると、もうすぐ夏が終わるのだと実感する。それをなんとなく物寂しく思いながら瞳を閉じていると、涼やかな風と共に原田の声が柔らかく響いた。
「……あんま肩ひじ張んなよ、桜庭」
「…は?」
ゆっくりと目を開けて障子の方へ顔を向けると、原田は柱に背中を預けて座ったまま、中庭に顔を向けていた。
「負けん気が強えぇのはいいが、なんもかんも一人でこなせるもんじゃねぇ。ぶっ倒れるほどしょい込んじまったら、それこそ誰も褒めちゃくれねぇしな」
しばらくの間、原田の銀色の髪を見つめながら黙っていた鈴花だったが、やがてうつむくと下唇をきゅっと噛んだ。
「そんなこと、わかってます。けど……」
鈴花の呟きに、原田はゆっくりと首を廻した。
「桜庭…?」
馬鹿にされたくない。女だから、非力だからと、特別視されたくないのだ。
だから人一倍仕事を引き受けようとしたし、言いつけられたことを早くこなそうと、食事時間や休憩を潰したことも度々あった。
今日だって「暑いのに悪いね。帰り、どこかで休んでくるといいよ」と笑顔を浮かべながら、こっそりと駄賃を渡そうとする近藤に対し、「これも隊士の仕事ですから」と突っぱねて屯所を出たのだ。
我ながら嫌な態度だったと、自分でもわかっている。
けれど『可愛い女』と言われるよりも、『頼れる同志』として認められたい。そして認められるためには、『女』という障害を持っている自分は、他の隊士以上に頑張らなくてはならないのだ。
「原田さんには…いいえ、男の人には、きっと一生わからないです。女の、私の気持ちなんか……」
呟いたままうつむいている鈴花の茶色の髪を黙って見ていた原田だったが、やがてぼりぼりと頭を掻くと眉間にしわを寄せてぼそりと言った。
「そーだな、確かにわかんねぇかもしれねぇ」
「……」
「けどな、だから世の中にゃあ、言葉ってもんがあるんじゃねぇのか?」
原田の意外な言葉に、鈴花は小さく肩を震わせると、ゆっくりと顔を上げた。
「わからせたかったら、口に出して言えばいい。わかりたかったら、遠慮しねぇで訊きゃあいいんだ。その方が、お互いに溜め込まずに過ごせるだろ?」
「でも……言えないことだってありますよ。言ったら喧嘩になるかもしれないし…」
「そん時ゃ、喧嘩すりゃいいんだよ」
さらりと言い放ち片方の眉を得意げに上げる原田を、鈴花は唖然とした表情で見返した。が、やがて両の眉尻を下げると口元に左手を当て、うつむき加減に顔を伏せて笑いだした。
「んだよ。俺、おかしなこと言ってるか?」
怪訝そうに聞き返す原田の声に鈴花は顔を上げると、目元を指で軽く拭いながら破顔した。
「ううん、全然。そうか、喧嘩しちゃえばいいんですよね」
「ま、そういうこった」
「あはは。なんだか原田さんと話してると、一人でごちゃごちゃ考えたのが馬鹿みたいに思えてきました」
すっきりした表情を浮かべた鈴花は、満足げな笑みを浮かべている原田に改めて向き直り、伺うように小さく首を傾げた。
「じゃあこれからは、煮詰まる前に原田さんに相談することにします」
「……は?」
「溜め込んで具合が悪くなる前に、話を聞いてもらいたいなって思ったんですけど……いいですか?」
改まって鈴花に見つめられた原田は、自分の頭に血が上ってくるのと、自分の体温と心拍数がみるみるうちに高くなっていくのを感じた。が、彼女の顔から視線を逸らせず、気がついたら反射的にうなずいていた。
「お、おう。なんでも言いやがれ。無茶してぶっ倒れられるより、愚痴でも罵声でもかまわねぇ、なんもかんもぶつけられるほうがましだからな」
言ってしまってから自分の発言に慌てたが、取り消す前に嬉しそうな鈴花の笑顔を向けられて、結局原田も、あいまいな照れ笑いを浮かべるしかなかった。
「お。起きたか、桜庭」
その声に振り返るといつの間に来たのか、永倉が濡れ縁から顔を覗かせていた。
「はい、ご心配をおかけしました」
言って顔を上げた鈴花と視線が合うと、永倉はにっと笑い、右手に持った笹筒を肩の高さに持ち上げた。
「あんま食えねぇだろうが、これっくらいならいけると思ってよ。葛切り買ってきたぜ」
「わぁ、食べます食べます!ありがとう永倉さん!」
歓声を上げた鈴花は、素早く掛布を跳ねのけて立ち上ると、永倉の手から笹筒を受け取り、原田を振り返って満面の笑みを浮かべた。
「器を取ってくるので、少し待っててくださいね!」
そう言って、呆然と座り込んでいる原田と永倉を残し、鈴花はぱたぱたと足音を立てながら、台所へ向って一目散に走り去っていった。
そんな彼女の後ろ姿を見送った永倉は、やがて腕を組むとくっくと喉の奥で笑った。
「まだまだ花より団子か。…ま、頑張れよ、佐之」
「なっ!き、聞いてたのかよっ!」
真っ赤になって睨みつける原田の視線を感じつつ、永倉は今度は大声をあげて笑った。