「よぉ桜庭。このつっかえ棒、外してくんねぇか?」
鈴花の部屋の前の濡れ縁に突っ立ったまま、永倉は障子の和紙から透ける心張り棒を見おろし、困惑顔を浮かべて頭を掻いた。
「こんなんがあったんじゃ、障子開けられねぇだろ?」
「……開けたくないから使ってるんです」
何度目かのやりとりの後、ようやく中から返事が返ってきて、永倉は安堵のため息を漏らした。少なくとも、良からぬことを考えてはいなさそうだ。
「とにかく、さっきのことは謝るからよ。それと…ちっとばかしオメーに知っといてもらいてぇことがあるっつうか……とにかく、話があんだよ」
しばらくの沈黙の後、中で微かに絹擦れの音がした。そして人影が障子越しに近づいてくるのが見えたが、その影は障子に触れる前に足を止めてしまった。
「…桜庭?」
怪訝そうに永倉が問いかけると、自分よりも小さな人影が微かに揺らめき、やがてそれはさらに小さくなったかと思うと、床に近いほうから声が響いた。
「お話があるならそこでどうぞ。私、ここで聞いていますから」
そう言い切った後、ぼそりと付け加えるように「事と次第によっては、障子、開けてもいいです…」と呟く様子に、永倉の口元に微かな笑みが浮かんだ。そこで彼はゆっくりとその場に腰を下ろすと、胡座をかいてから自分の膝をぽんと叩いた。
「わかった。んじゃ、癇癪起こさずに、ちゃーんと最後まで聞けよ」
「お話の内容次第、です」
鈴花の言葉に永倉はくすりと笑うと、覚悟を決めるようにひとつ大きく息を吐いた。
「ま、言う気はなかったんだが…オメーが寂しい思いしちまってるってぇいうなら、その、惚れた女を守ると決めた男としては、なんつうか責任ってもんをよ…」
「……嘘つき」
「おいおい。オメー、黙って話を聞くって……」
永倉が怪訝そうに眉をひそめた途端、ガタガタと音がしたかと思うと、障子がスパンと勢いよく開かれ、溢れんばかりの涙を目に溜めた鈴花が、すごい勢いで顔を出した。
「嘘つきっ! 永倉さんなんて大嫌いっ!」
「はぁ? お、オレは嘘なんて…」
とつぜん怒鳴られて焦る永倉の胸元を掴むと、鈴花は指が白くなるほど襟を握りしめ、顔をうつむけて叫んだ。
「いつも誤魔化してばかりで、本当のことなにひとつ言ってくれないじゃないですかっ! わ、私のこと本当に好きならほ、他の女の人となんて…でき、ないはずなの…にっ…」
しばらく震えている鈴花の頭を見ていた永倉は、やがて小さくため息をつくと、彼女の身体をぎゅっと包むように抱きしめた。
「……やっぱそう思っちまってたか…悪かったな」
急に謝られた鈴花は、しゃくり上げながら微かに顔を動かした。すると視線が合った永倉は、困ったような笑みを浮かべた。
「オレぁ男だから、どうしようもねぇ時ってのもあるのよ。そいつについては、言い訳のしようもねぇ。けどな、大事だから…大切だからこそ、そんな時でもオメーにゃ手が出せなかったって言ったら……信じるか?」
鈴花の頬を流れる涙を指で優しく拭いながら、永倉はそっと視線を伏せた。
「オレぁ一介の剣士だ。どこで恨みを買ってるかわかりゃしねぇ。だからオメーがすげぇ欲しくても、手が出せなかった。もしオレが命を落としたら、嫁入り前の気質の娘のオメーに、傷をつけちまうことになるからな」
「……そんなこと、考えてたんですか?」
「ああ。オレに何かあっても、オメーには幸せになって欲しい。だからオメーは、綺麗なままでいなくちゃならねぇんだ」
「……そんなこと、勝手に決めないで下さい」
呟いて顔を上げた鈴花は永倉をぐっと睨みつけ、やがて強い口調で言いきった。
「私は、永倉さんと一緒じゃなきゃ幸せになれないです。他の人じゃなく永倉さんじゃなきゃ嫌なんです。だから、ちゃんと生き抜いて、私を…幸せにして下さい」
強い視線を向けてくる鈴花を、黙って見返していた永倉は、やがて微かに笑った。
「本気で言ってんのか、桜庭?」
「もちろんです。疑ってるんですか?」
「そいつぁつまり、手を出していいってことだよな?」
「ちっ、違いますっ!」
永倉の意地の悪い問いに、鈴花は真っ赤になって首を振った。すると永倉は楽しそうに笑い、彼女の額に自分の額を当てた。
「へへっ、ばーか。冗談だよ…ありがとな、鈴花」
「……」
初めて呼ばれた名前に、鈴花はまともに顔を上げられず、永倉の着物の襟をぎゅっと掴み直した。そんな彼女を愛おしげに見おろし、やがて永倉はゆっくりと、彼女の唇に口を寄せた。
「…こんくらいはいいよな? 続きは、ちゃんと祝言あげてからにすっから……よ」
永倉の言葉に鈴花は微笑むと、彼の腕にそっと手を添えてゆっくりと目を閉じた。