角屋を出たのは、ちょうど六ツ半。
日没こそ過ぎてはいたものの、まだまだ島原の往来は人で溢れ、むしろこれからが、この賑やかな界隈の本領発揮といったところだろう。
そんな中、新選組二番隊組長の永倉新八は足を弛めず、ともすれば駆け出そうとしているかのように、上体を前のめりにして素早く足を動かしていた。
足早に島原口を抜けたところで小走りになり、やがて本願寺をぐるりと廻り屯所の正面に出たところで、ぎくりと肩を震わせて立ち止まった。
そうしてすばやく寺の塀の陰に隠れると、顔だけをそっと覗かせて門前を見直し長く深い息を吐きだした。
「あっちゃあ……見張ってやがるわ」
「……なにをしているんだい?」
こっそりと様子を伺っているところへ、急に背後から声をかけられ、永倉は驚くと同時にほぞを噛んだ。
しかし、すぐに気持ちを切り替え、素早く右手を刀ヘと伸ばすと、振り向きざまそれを引き抜き構えた。が、声を掛けた人物が強張った表情を浮かべるのを見た途端、肩から力を抜いて刀を下ろした。
「なんでぇ、魁さんかよ。ったく、本気で焦ったぜ」
「わ、悪かったね。いきなり声をかけて」
「いんや。オレこそすまねぇな、確かめもせずいきなり抜刀しちまってよ」
「いやいや、それこそ慣れているよ」
永倉が苦笑を浮かべて刀を鞘に戻すのを見おろしていた島田魁は、邪気のない笑顔を浮かべた。
そんな同僚に微苦笑を向けた永倉だったが、ふと目を見張ると、大柄な島田にずいっと詰め寄り、切迫した表情を浮かべた。
「そ、そうだ! 魁さん屯所に帰んだろ? 悪ぃが、ちっとばかし盾になってくれねぇ?」
「ど、どうしたんだ新八くん。…まさか、不逞浪士に追いかけられているんじゃ……」
小さく叫んで表情を引き締めた島田に対し、永倉はその大きな身体の後ろに回り込むと、背中をぐいぐいと押しながら、本願寺の塀の影から道なりに歩き出した。
「そんなんじゃねぇよ。いや、ある意味浪人共より、よっぽどタチが悪ぃっつうか……」
「はぁ??」
疑問符を浮かべる島田だったが、永倉に押されるまま歩き続け、やがて視線の先に門の前で動き回る人影を発見して、怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれ……桜庭くん?」
この時間、自由時間を満喫した隊士達が屯所に戻ってくる。だからそこにれっきとした隊士である桜庭鈴花の姿があったところで、そうおかしなことではない。
だが、門をくぐる隊士達は皆一様に、不思議そうな表情を浮かべて鈴花の隣を通りすぎていた。
それもそのはずで、彼女は日もすっかり落ちた門の前、かがり火の下で、箒を持ってせっせと道掃除をしているのだ。
「……なんでこんな時刻に?」
島田がぼそりと呟いた途端、鈴花が不意に顔を上げ、島田の姿を見つけて、にこりと微笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、島田さん」
「え、あ、た、ただいま……」
答えて後ろを振り返ろうとした途端、永倉にどすんと肩甲骨の下を小突かれ、島田は慌てて正面を向いた。
「すまねぇが、このまま中に入ってくれ。オレの方で、アイツに見つからねぇよう適当に移動すっからよ」
永倉の低いささやきに微かにうなずくと、島田は「ご苦労さまだね」と言いながらぎこちない笑顔を浮かべ、鈴花の横を何気ないふうを装って通り抜けた。その隣を、永倉がするりと通り抜け、島田の前に回り込んでから、ほっと息を吐きだした途端、門前で箒を動かしていた鈴花が、振り返りもせずに口を開いた。
「永倉さんもお帰りなさい。楽しかったですか?」
「……いっ!?」
思わず声を漏らして硬直する永倉に、島田はぶつかりそうになって足を止めた。そしてゆっくりと背後を振り返ってみたが、鈴花がこちらに向き直って、冷ややかな笑みを浮かべているのを見た途端、また慌てて門に背を向けた。
永倉はしばらく固まっていたが、やがてのそりと島田の影から姿を現わすと、ぎこちない笑みを浮かべた。
「…なんでわかった? 気配、ちゃんと消してたぜ」
「気配は消せても香りは消せませんから。小常さん、竹栄堂の白檀を焚き染めるのがお好きなんですよね?」
以前、軽い気持ちで馴染みの遊女と鈴花を引きあわせたことを、永倉は今頃になって後悔した。が、ここで素直に謝るのも癪に障るし、そもそもこんな時間に掃除を装い、門前で待ち伏せしている鈴花の態度も気に入らない。
だから永倉はため息を一つつくと、背筋を伸ばしてふんぞり返り、頭を掻きながら不機嫌そうに眉をひそめてみせた。
「そこまでわかってんなら言い訳はしねぇ。そもそも、オレがオメーに四の五の言う必要もねぇしな」
永倉の言葉に、鈴花はぴくりと肩を震わせた。そしてぎゅっと眉間にしわを寄せると、永倉を正面から睨みつけた。
「新八くん……もうその辺で」
鈴花と永倉を交互に見比べた島田は、不安そうな表情を浮かべて永倉の言葉を制しようとした。しかし彼は島田の差し出した手をするりと躱すと、数歩前に歩みだし、鈴花の目の前で立ち止まった。
そして彼女の顔を覗き込むと、真面目な表情で口を開いた。
「ああ、そうよ。オメーの想像通り、オレぁいままで角屋に居たさ。そこで小常と、しっぽりすっぽり組んず解れつ、男と女の時間ってぇヤツを……」
その先の言葉は、永倉の口からは漏れなかった。きっと顔を上げた鈴花が右手を振り上げ、永倉の横っ面を思いきり張り飛ばしたからだ。
叩かれた左頬を永倉がゆっくりと撫でると、その顔を睨みつけていた鈴花の唇が、激情のあまりわなわなと小刻みに震えた。が、やがて彼女の大きな瞳からぶわっと涙があふれ出すと、鈴花は箒を放りだし、口元を押さえたまま、永倉と島田を残して走り去ってしまった。
「……ってぇ」
まともに叩かれた所為で、口の中が切れたらしい永倉は渋面を浮かべると、顔を僅かにうつむけ地面に血を吐き出した。
しばらく鈴花の走り去った方向を見ていた島田は、やがてゆっくりと振り返ると、しかめっ面を浮かべて頬を撫でている永倉をじっと見つめた。
「いいのかい……追いかけなくて」
「……あの剣幕じゃ、追っかけたところで話も聞かねぇだろうさ。また殴られんのがオチってね」
そう言って苦笑を浮かべる永倉を見おろし、やがて島田は微苦笑を浮かべた。
「新八くんはいろいろと気がつくけれど、いざ惚れた女人のこととなると、からきし鈍くなるんだね」
「か、魁さんっ!」
叫んで振り返った永倉の表情が、まるで初恋に翻弄されている十代の少年のそれだったものだから、島田は思わず目を見張った。
やがて優しげな笑みを浮かべると、彼の肩をぽんと叩いてその横を通り、鈴花が置いていった箒をすっと拾い上げた。
「納得するかしないかは別として、ちゃんと伝えたほうがいいんじゃないかな」
しばらく島田の大きな背中を見つめていた永倉だったが、やがて困ったような笑みを口元に浮かべると、島田の背中をポンっと叩いて、くるりときびすを返した。
「……なぁ、魁さん」
「なんだい?」
背中を向けた永倉を、島田は自分の肩越しに見た。すると永倉は自嘲じみた笑みを浮かべ、そして足早に歩き出した。
「男ってぇなぁ、なんでこう厄介な生き物なのかね」
歩み去る永倉の背を見送った島田は、手にした箒を見おろし、くすりと小さく笑った。
「そんな贅沢な悩みを持つのは、新八くんくらいだよ」