勘定方の手伝いとして酒屋への支払いを済ませた桜庭鈴花は、ようやく涼しい風が吹くようになった京の都の秋を堪能しながら帰ろうと思い立ち、ぐるりと大回りをして、鴨川沿いをゆっくりと歩いていた。
そうして歩くうち、川べりの草原で動く金色の髪に目を止めて立ち止まると、大声で叫んだ。
「近藤さーん!」
すると呼ばれた男は顔を巡らし、隊の紅一点である少女の姿を目に捉えて相好を崩した。
「お、桜庭君じゃないか。なんだ、こんなところでなにしてんだい?」
土手の草むらを踏みしめながら下りてきた鈴花は、近藤の隣で立ち止まると、首を微かに傾げた。
「豊松屋さんへ今月の支払いに。って、近藤さんこそ、こんなところで何をなさってるんですか?」
訊ねてちらりと見おろせば、近藤が地面に胡座をかいて座っているその膝の間で、気持ち良さそうに丸まっている子犬が目に止まった。と、同時に鈴花は「わぁ、可愛いっ!」と歓声を上げ、その場にしゃがみこんだ。
「近藤さん、この子どうしたんですか?」
近藤は彼女の声に微かな笑みを浮かべ、子犬の背中をゆっくりと撫でた。
「いや、屯所を出て歩いてたらどこからともなく現れてね。なんか追い払うのも可哀想でほっといたら、ここまでくっついて来ちまったんだよ。いってぇ、どこを気に入られたんだかねぇ……」
「あはは。近藤さんの髪の色が自分の毛に似てるから、親だと思ったんじゃないですか?」
そう言って鈴花がからからと笑うと、近藤は自分の前髪を指で摘んで目を寄せた。
「そうか……って、そんなわけがあるかい! きっと俺があんまり良い男なんで、ふらふらとついて来ちまったんだ。なぁ、タマ?」
近藤がそう言って子犬の身体をひょいと持ち上げると、鈴花は不思議そうに首を傾げた。
「タマって……近藤さんがつけたんですか?」
「ああ。短いつきあいでも、名前がねぇと呼びにくいだろ? なんか、おかしかったかい?」
「いいえ、そんなことはないですけど……」
鈴花は軽く首を振ったあと「んーでも……」と小さく呟き、顎に手を添えて怪訝そうな表情を浮かべた。
「犬だったら、普通はチビとかシロじゃないですか? タマっていうと、なんだか猫みたいだなって」
すると近藤は「あはは!」と笑い、両手で持っている子犬の顔を覗き込んだ。
「確かに桜庭君の言う通りだ。もっとも、タマってぇのは、俺の娘の名前なんだけどね」
「あっ!」
鈴花は思わず声を漏らすと、赤くなって顔をうつむけ、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「す、すみません……私、その……」
「いいよいいよ。そういう風に、思ったことをちゃんと口にする君の真っ正直なところ、俺は好きだからさ」
「……は、はぁ」
どうも素直に褒められているようには思えなかったが、またおかしなことを言ってしまわないようあいまいな言葉を発しただけで、鈴花はさりげなく子犬から視線を逸らした。だが近藤はそれ以上の追及はせず、子犬の身体を自分の膝に乗せ直すと、微かな笑みを浮かべてその背中を黙って撫でている。
いつもの明るい近藤とは雰囲気が違うと感じた鈴花は、恐る恐る彼の顔を覗き込み、その目をじっと見つめた。
「なにか、あったんですか?」
「んー。いや……」と呟いてから、近藤は困惑気な表情を浮かべて右手を上げると、自分の頭を掻いた。
「さっき、江戸から文が届いてね……女房からだったんだけど」
「奥様から……まさか、ご家族になにか?」
「いいや。健勝でやってるから、心配するなってさ」
「そうですか。よかったじゃないですか」と呟いて安堵する鈴花の横で、近藤は「ん、そうだよな」と呟いたが、その顔は曇ったままで、再び子犬の背を撫で始めた。
「近藤さん……?」
「俺がいなくてもつねは元気で、たまもちゃんと育ってる。俺がいなくても、みんな普通に生きていける。それは……いいことなんだよな」
「……」
呟く近藤の顔をしばらく見つめていた鈴花は、やがて川面に視線を向けると、独り言のように呟いた。
「普通になんて過ごしてないですよ。本当は寂しくて一緒にいたくて仕方がない……それを隠しているだけだと思います」
「……桜庭君?」
ゆっくりと顔を上げて鈴花の横顔を見ると、彼女は穏やかに微笑んで近藤の方へ顔を向けた。
「でも近藤さんのことが大好きだから……貴方に、自分の夢をかなえてもらいたいから。だから奥様は『大丈夫』としか書かれないんです、きっと」
そう言って微笑む鈴花の笑顔は、江戸で別れたときのつねの笑顔に似ているような気がした。
『私たちは大丈夫。だからどうぞ、旦那様の思うように、思った通りに生きて下さい……』
「……つね」
呟いて近藤は、一瞬目を伏せた。そして、しばらくしてからゆっくりと顔を上げると、もういつもと同じ朗らかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう、桜庭君」
「いいえ」
にこりと笑う鈴花の横で、近藤はひょいっと子犬を持ち上げて立ち上がると、鈴花の方へ空いている手をすっと差しだした。
「あーっ。ふっ切れたら、なんだか甘いもんが食べたくなっちまったなぁ。桜庭君、今日は思いきり奢ってやるから、俺に付き合ってくれないかい?」
すると鈴花はきょとんとした表情を浮かべ、すぐにくすくすと笑いながら近藤を見上げた。
「それは局長命令ですか? それとも近藤勇さんのお誘いですか?」
「そいつぁ、難しい質問だねぇ」
言いながら近藤ははつらつと笑い、鈴花の伸ばした手を握ると彼女をゆっくりと立たせ、そのまま手を取って歩き出した。