もう一度、初めから

(1)

「ジェイドさん。少しだけフルールに寄り道をしてもいいですか?」

繋いだジェイドの手を軽く引いたアンジェリークが伺うように見上げてくるので、ジェイドはかすかに微笑んでうなずいてみせた。

「もちろん。確か、君のおばさんが住んでいるんだよね?」

「はい。でも今日は、おばさまに会うんじゃなくて……」

少し言いよどんだアンジェリークだったが、ジェイドが黙って彼女の次の言葉を待っていると、また顔を上げてゆっくりと口を開いた。

「あの……ジェイドさんに、一緒に行って欲しいところがあるんです」

 

アルカディアに巣くい、人々に恐怖と絶望を与え続けていた未知の生命体『タナトス』は、その根源ともいえるエレボスを倒したことで、アルカディアの大地から次々に姿を消していった。そしてその奇跡は、夜空に広がったオーロラの輝きとともに、遥か昔この世界に存在したと言われる『女王陛下』の降臨を人々に大いに期待させていた。

なんとなれば、それより数ヶ月前に聖都セレスティザムを通じて「ついに女王の卵がこの地に現れた」というセンセーショナルなニュースが人々に伝わっていたからだ。

しかし実際には、セレスティア教団からの「タナトスの脅威は去った」という高らかな宣言と、今後はアーティファクト財団と連携関係を結び、荒廃したアルカディアの復興を支援していくという報せが全土に流されただけだった。

その結果、ある者は「最後の戦いで、女王の卵は己の命を捧げてエレボスを倒したのだ」と言い、またある者は「タナトスの脅威を取り除いた女王の卵は、その役目を終えてアルカディアを去ったのだろう」などと、まるで自分が見てきたかのようにまことしやかに人々に伝えて廻った。

しかしその推測は、どれもこれも見当外れなものばかりで、真実を知る一握りの者たちは、流布される噂に微苦笑を浮かべつつも、誰も本当のことを明かそうとはしなかった。

 

そうして、先のエレボスとの戦いを経て地上へ戻ったオーブハンターの一員であるジェイドは、改めて自分の隣を歩くアンジェリークに視線を向け、愛おしそうに目を細めた。

その視線に気がついたアンジェリークは、ふと顔を上げたが、すぐに頬をほんのりと染めてわずかにまぶたを伏せた。

「あの……私の顔になにかついていますか?」

「ううん。ただ、アンジェがここに……俺の隣にいてくれることがすごく……幸せだなって感じていたんだ」

ジェイドの言葉に、彼の手を握ったアンジェリークの手の力がほんの少し強くなった。そしてそれは、言葉にしなくても彼女の想いを伝えてくれているようで、ジェイドはまた目を細めて微笑んだ。

「アルカディアから君を……女王の卵を取り上げてしまったんじゃないかって思っていた。そんな資格、人間ではない俺にあるのかって考えが、君が戻ってきてくれたときからずっと、嬉しさと同時に胸の中に留まっていたんだ。けど……」

「ジェイドさん……」

ジェイドの淡々とした言い方に不安を感じたアンジェリークはゆっくりと顔を上げて彼の横顔を見たが、そこには心配したような暗い影は微塵もなかった。

ジェイドは真っ直ぐに顔を上げ、自身の正面を見つめたまま、穏やかな笑みを浮かべていたのだ。

「君が側にいてくれるのが嬉しい。俺の前で笑ってくれるアンジェを見ているのがとても幸せだ。だからこの幸せに、なにも考えずに浸ってみようって思うことにしたよ。君が教えてくれたように、自分に正直に、そして……少しだけ我が儘になってみよう、ってね」

言ってアンジェリークの方へ顔を向けたジェイドは、彼女の手を改めて握り返してから、ゆったりと微笑んだ。

「大好きだよ、アンジェ。俺と出会ってくれて……俺のところへ還ってきてくれて、本当にありがとう」

「……ずるいです、ジェイドさん」

アンジェリークが急に顔を背けてつぶやいたものだから、ジェイドは怪訝そうに眉をひそめた。すると彼女は改めて彼の方へ向き直り、ゆっくりと顔を上げて口をへの字に結んでみせた。

「そんなこと言われたら……う、れしくて、涙が、でてきちゃ……うじゃないですか」

「ア、アンジェ!」

ジェイドが驚いて上体を屈めると、アンジェリークは空いている左手で目元を何度もこすりながら、真っ赤になった顔を隠そうとまた横を向いた。

「私、ずっと思っていたんです。女王の卵なのにジェイドさんを好きになって、離れたくないって思いはじめて……。アルカディアのみんなと未来のことを考えなくちゃいけないのに、気がつくと、いつもジェイドさんのことばかり考えてて……なんて我が儘なんだろうって」

「でも……」とつぶやいたアンジェリークは、ゆっくりと顔を上げ、涙の溢れる瞳のままにこりと笑った。

「それって、私だけじゃなかったんですね。ジェイドさんも同じだったんだって……思っていいんですよね?」

「……うん。俺たち二人とも、とても我が儘だったんだ」

そっと自分の方へ引き寄せた身体はあまりにも軽くて華奢で、ジェイドは壊れ物を扱うように大事にアンジェリークを抱きしめると、再び溢れ出した彼女の涙がすっかり出尽くしてしまうまで、小さな背中を優しく撫で続けていた。