耳に残るは君の歌声

(1)

楽しそうにハミングをしながら歩く『女王の卵』の背中をしばらく見つめていた『元・銀樹騎士』の青年は、やがて歩みを止めぬまま口を開いた。

「アンジェリーク、少し聞いてもいいだろうか?」

彼の改まった口調に足を止めたアンジェリークは、身体ごと振り返ると小さく首をかしげた。

「なんですか、ヒュウガさん?」

するとヒュウガも足を止め、ともすると無表情にも見える真剣な顔で、自分の肩ぐらいまでしかない少女の瞳をじっと見返した。

「貴女はいつもそうして歌っているが、なにか楽しいことでもあったのか?」

ヒュウガがそう尋ねると、アンジェリークは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。が、すぐに小さく「あっ!」と声を上げると、恥ずかしそうに口元を押さえながら頬を染め、ヒュウガを上目遣いにちらりと見上げた。

「無意識だったんですけど……聞こえちゃいました、か?」

「ああ。街道に出てからずっと、貴女は実に楽しそうに歌っていた」

「……うわぁ」

「今日だけではないな。俺が覚えている限り、貴女の歌声を聞いたのは、一度や二度ではない。少なくとも、片手の指に余るほどだ」

ヒュウガの冷静な指摘に、アンジェリークは所在なげに肩をすくめ、真っ赤になった顔を伏せて押し黙ってしまった。

すっかり萎縮してしまった少女の姿は、さすがに朴念仁の青年にも罪悪感を抱かせたのだろう。ヒュウガの表情にとまどいの色が浮かぶと、彼は半歩前に踏み出し、アンジェリークの肩に腕を伸ばした。 だが、すぐに彼は己の教示と本分とを思い出し、ゆっくりと手を下ろしたと思うと、彼女の前で頭を垂れた。

「申し訳ない、アンジェリーク。気分を害したのならば謝る。俺は別に、歌を歌うのが悪いと言いたかったのではないのだ。ただタナトスを退治した後も、町に買い物に出かけた時でも、貴女はいつも、同じように楽しそうに歌っているから……」

ヒュウガの申し訳なさそうな声に反応したアンジェリークは、慌てて背筋を伸ばすと彼を見上げ、大げさに首を振ってみせた。

「そんな、謝らないでくださいヒュウガさん! 私だって、誰かがいつも鼻歌を歌ってたら気になりますし!」

「俺は貴女がおかしいとは言っていない。ただ、なにか意味があるのだろうかと疑問に思っただけだ」

ヒュウガの言葉は時にあまりにもストレートなので、出会ったばかりの頃は無邪気なアンジェリークでさえ、ムッときたこともあったものだ。だが今見ている彼はあくまでも真顔で、自分の発言が、受け取り方によってはかなり失礼なものだということには、まったく気がついていないようだ。

だからアンジェリークは心の中で小さくため息をついてから、にこりと笑顔を浮かべてヒュウガを見上げた。

「意味っていうか……ヒュウガさんが考えたとおりですよ。無事に一日が終わった時に、帰れるお家があるのが嬉しいんです」

「家に……帰る?」

ぽつりとつぶやいたヒュウガの言葉に、アンジェリークはこくりとうなずいた。

「はい。陽だまり邸は私にとって、大切で大好きなお家なんです」

アンジェリークはそう言うと、ふふっと声を出して笑った。そして、すっかり太陽が傾いた地平線に目を向けると、うっとりと目を細めた。

「陽だまり邸に帰って、皆さんと顔を合わせてディナーを食べながら、今日あった出来事をみんなでおしゃべりして。……そういうことを想像すると、とても幸せな気持ちになって、それで気がついたら、歌が口をついて出てしまっていたんです」

言うとアンジェリークは首を廻らし、ヒュウガを振り返って伺うように小首をかしげた。

「ヒュウガさんはどうですか? 一日のお仕事が済んでから帰るお家があるのって、嬉しくないですか?」

アンジェリークの素直な問いに、ヒュウガは一瞬息を詰めた。そうして改めて、自分が今まで『帰る家』などということを、まったく意識せずに生きてきていたことに気がついた。

物心ついた頃に故郷キリセを離れ、その後ずっと銀樹騎士として聖都セレスティザムで過ごしたが、友と暮らす寄宿舎を『家』と意識したことはない。

成人して後は、それこそ仕事でアルカディア中を旅して回っていたから、どこかに腰を据えて家を建てる、などとは考えたこともなかった。

あの頃のことを思えば、いまこうしてなんの疑問も持たず、当たり前のように陽だまり邸に帰っていることは、自分の人生の中で初めての経験かもしれない。団体生活を取り立てて嫌いはしなかったが、どこか他人と距離を置いていた昔とは違い、いまはむしろ進んで仲間たちの手伝いや手助けをしようとしている。

――これが『家族』というものに対しての感情なのだろうか。

だとすれば俺は、いつの間にか彼らを、仲間以上の存在として受け入れていると……いうのか?