――ジェイドさん、待って! 行かないで!
アンジェリークは、遠ざかっていく背中を必死で追いかけながら叫んだ。
声を張り上げた途端、視界がぼやけ、アンジェリークは自分が泣いていることに気がついた。だがジェイドは気がつかないのか、振り返ろうともせずに歩きつづけ、みるみるうちにその姿が小さく遠くなっていく。
――ジェイドさん! ジェイドさん!
泣き叫びながら伸ばしたアンジェリークの手はむなしく空を掴み、前のめりになった彼女の身体は、そのまま地面に倒れ伏した。
――アンジェ、ごめん。俺はやっぱり、君と一緒にいることはできないよ。
――どうしてですか? 私が女王の卵だから? 私が普通の女の子じゃないから?
――俺と君では、時間の流れが違うんだ。アンジェリーク。俺と君は、何もかもが違いすぎるよ。
振り返ろうともせずに答えるジェイドの言葉に、アンジェリークは大きく目を見開いた。その途端、彼女の瞳から溢れた涙が真っ黒な地面にこぼれ落ちていく。
――ジェ、イドさん……
振り絞るようにその名を呼んで顔を上げたが、アンジェリークの目の前には、ただ深い闇が広がっているだけだった。
「……アンジェ、起きてる?」
日がすっかり高く昇った午前10時。
いつもなら、今から2時間も前に起きてくるアンジェリークの部屋の扉をノックしながら、ジェイドは中の様子をうかがうように声のトーンを少し押さえた。
「みんな心配しているよ。もしかして、どこか具合でも悪いのかい?」
ジェイドの問いかけに中からの返事はなく、彼は不安げな表情を浮かべた。そして一瞬ためらった後、先ほどよりも少し強めに二度ノックをしてから、ゆっくりと扉を押し開けた。
「おはよう、アンジェ。君が寝坊するなんて珍しいから、様子を見てきてくれってニクスが……」
言いながらアンジェリークの眠るベッドに歩み寄ったジェイドは、ふわふわの羽布団を蹴飛ばしてくうくうと寝息を立てる少女の寝姿を見た途端、ぴたりと足を止めた。
それは別に、彼女に対してよこしまな思いを抱いたからとか、ジェイドが特別に純情だったからではない。そこに眠る少女が、ジェイドがよく知るベッドの持ち主とは明らかに違う姿形をしていたからだ。
「…………アンジェ、リーク?」
ジェイドは上体をかがめると、ベッドの上で身体を丸めるようにして眠っている少女の顔をのぞき込むと、存在を確認するように声をかけた。
「……アンジェリーク、だよね?」
すると安らかな寝息を立てていた少女が、ジェイドのその言葉に反応したかのように、ぱっちりと目を開けた。そしてゆっくりと身体を起こしながら目を両手でこすり、その仕草を観察するように見入っていたジェイドに気付いた途端に、まるで花が咲いたような笑顔をぱあっと浮かべた。
ひしっと自分に抱きついてくる、推定年齢2?3歳くらいの幼女の身体をとっさに受け止めたジェイドは、彼女の背中に手を回したが、その手に触れた物の存在に驚き、まばたきを何度も繰り返した。
「……どうしよう、小さくなるだけじゃなくて、羽根まで生えちゃってる」
ジェイドと、彼の腕に抱かれたまま興味津々で自分とヒュウガを見比べる幼い少女から視線を外すと、ニクスは苦笑しながら肩をすくめた。
「……では確たる証拠はないけれど、この子はアンジェリークだと……貴方はそう思うのですね、ジェイド?」
「うん。彼女の部屋に行ったら、彼女のベッドにこの子が寝ていたんだ。何があったか、俺にもわからない。けどこの子は、絶対にアンジェだよ」
そう断言してうなずくジェイドの言葉に続いて、ヒュウガが無言ですっと前に歩み出た。そしてその場に屈むと、ジェイドに抱かれた少女の背の羽根をちらりと確認し、改めて彼女に向き直ったかと思うと、少女の瞳をじーっと見つめた。
すると少女は不安げにジェイドをちらりと振り返ったが、彼が笑顔でうなずいたことに安心したのか、ふわっとした笑顔を浮かべながら、ヒュウガのほうへ腕を伸ばして身を乗り出した。
「……?」
彼女の行動の意味がわからないヒュウガは眉をひそめ、伺うようにジェイドを見上げる。
「ヒュウガ、抱っこしてあげて」
「……俺が、か?」
驚いてジェイドを見直したが、彼はヒュウガの戸惑いなど気にせずに、少女の身体を軽々と自分の膝の上から持ち上げた。
「大丈夫。生まれたての雛を抱くように、そうっとね」
「雛など抱いたことはないが……」
言いながらもぎこちなくうなずいたヒュウガは腕を上げ、ジェイドの腕から小さな身体を受け取った。すると少女は心得たようにヒュウガの腕の中に収まり、彼の肩越しにニクスを見上げて、笑顔を浮かべた。つられたニクスもつい笑みを返してしまい、そのことに気がつくと改めて肩をすくめた。
「確かに、我々を見ても物怖じせずに堂々としているところをみると、ジェイドの言い分も理解できますね」
「だろう? それに、実はそれだけじゃないんだ」
言うとジェイドは、ヒュウガに甘えている少女から見えるようにニクスのほうを指差した。
「ねぇアンジェ。あの人は誰だい?」
すると少女はジェイドの指差す方に視線を向け、ニクスの姿を捉えると「イクスたん!」と叫び、楽しそうに笑った。
「じゃあ、この人は?」
そう言いながら今度はヒュウガを指差すと、少女は自分を抱いている青年のほうへ向き直り、また微笑んだ。
「シュウカたん」
「……ヒュウガだ」
舌の回らない幼女の解答に、真面目に異議を唱えて眉をひそめたヒュウガだったが、すぐに微苦笑を浮かべ彼女を抱いたまま、すっくと立ち上がった。
「なるほど。確かに我々のことを知ってはいるようだ」
「言っておくけど、俺が教えたんじゃないからね。彼女は俺のことも、教えてないのにちゃんと知っていたんだ」
ジェイドが誇らしげに言うと、ヒュウガの腕の中にいた少女がくるりと振り返り、「シェイトたん!」と叫んできゃっきゃと笑い出した。
「アンジェリークの部屋に行ったら、彼女のベッドに寝ていたのは羽根つきの小さなマドモアゼル。その子は私たちのことを知っていて、姿形もアンジェリークによく似ている……」
言いながらニクスは背に回した手を組み、ゆっくりとサルーンの中を歩き回った。
「そして肝心のアンジェリークの姿はない。けれど昨夜から今朝にかけて、彼女がどこかへ出かけるのを見た者はいない……」
「俺は、今朝5時には起きていた。瞑想をしてはいたが、誰かが屋敷から出て行く物音がしていれば、外がまだ暗かったとはいえすぐに気がついたはずだ」
ヒュウガはそう言いながら、小さな少女をジェイドに手渡した。
「仮に窓から抜け出そうにも、彼女の部屋に届く枝を持った木は生えていないしね」
ヒュウガから少女を抱き取ったジェイドの言葉に、ニクスがしたり顔でうなずいた。
「ええ、不埒な行動を起こす者がいないとも限りませんからね。万が一にも彼女に危害を加えられぬよう、あらゆる可能性を排除して部屋を決めたのです」
言うとニクスは、何かを確認するようにもう一度うなずき、二人の方へ身体ごと向き直った。
「屋敷の鍵は私が管理していますし、昨夜最後に戸締まりの確認をしたのも私です。その後まで起きていたとすれば……レインくんでしょうか」
ニクスの口から漏れた名前に、ヒュウガが小さくため息をついた。
「昨夜も夜更かしをしたのだろう証拠に、まだ起きてこないな。だが起きていたとしても、レインは研究に没頭すると周りの音が聞こえなくなる」
「そうかもしれませんが、ことはアンジェリーク絡みですからね。レインくんが見逃すはずはありませんよ」
くすくすと笑いながらニクスは言うと、ゆっくりとソファに歩み寄った。そしてジェイドの膝の上にちょこんと座っている少女ににこりと笑いかけた。
「それに、いくら研究に熱中していたとはいえ深夜ですから、気配は感じやすいもの。彼もオーブハンターの一員なのですから、怪しい物音がすればなんらかの手をうっていたと思うのですよ」
ニクスの言葉に、二人とも納得したように小さくうなずいた。
では、アンジェリークはどこに行ってしまったのか。そして、彼女の部屋にいた、彼女によく似た幼い少女の存在。
ややあって、ニクスは何かを崇めるように天井へと目を向けた。すると彼の耳に、小さいけれど優しい音色が響いてきて、ニクスはゆっくりと顔を戻した。そして、歌声の聞こえる方へと首を廻らし、その出所に驚いた彼は大きく目を見開いた。
小さな少女がジェイドの膝の上で、目を閉じたまま歌を口ずさんでいた。その姿を見ているヒュウガやジェイドも、ニクスと同じように驚いて声が出ないようだ。
確かに彼女が口ずさんでいるのは、ジェイドがアンジェリークに教えた曲だった。それはこの前の夕食会の席でジェイド自らが話したのだから、間違いはない。しかしジェイドは、ニクスが確認するように彼へと視線を向けると一瞬困惑したような表情を浮かべたが、すぐにゆっくりと首を振ってみせた。
「いいや……俺は教えていないよ」
「……楽しいときに自然と口をついて出るのだと……彼女は言っていた」
ヒュウガがぽつりと呟く横顔にちらりと目線を向け、ニクスは肩をすくめた。どうやらヒュウガもジェイドと同じで、この突拍子もない結論を受け入れてしまったようだ。
やがてニクスは微苦笑を漏らすと、歌っている少女の前にすっと屈んだ。そして彼女のとても小さな手をとると、歌うのをやめてじっと自分を見つめてくる菫色の瞳を、目を細めて見つめ返した。
「事実は小説よりも奇なり、とはよくいったもの。さてマドモアゼル、貴女はどのような試練を我々に与えるために、このようなお姿になられたのですか?」