「これは……素晴らしい」
目の前に出されたオレンジタルトを口に入れると、ニクスは感嘆の声を上げた。そして目の前で嬉しそうな笑顔を浮かべるアンジェリークに、改めて笑顔を見せる。
「また腕を上げましたね、アンジェリーク」
「そんな。材料がいいから、私の腕じゃないです」
「ご謙遜なさらなくてもいいのですよ。その素晴らしい材料を生かすも殺すもパティシエの腕次第だと、私は考えているのですから」
「ありがとうございます。ニクスさんに褒めていただけると、本当に腕が上がったみたいで嬉しいです」
「本当のことしか私は言いませんよ」
くすりと笑ってティーカップを手にしたニクスは、同じように紅茶を飲み始めたアンジェリークをじっと見つめた。
「ところで、今年の収穫はいかがです?」
「はい。コズの村の収穫は、今年はすごくいいみたいです。特にオレンジの出来がいいって、長老がすごく喜んでました」
「なるほど、コズはオレンジが特に有名ですからね。その収穫がいいとなると、今年の収穫祭は大層盛り上がるのではないですか?」
「はい。今からとっても楽しみなんです。……そうだわ、ニクスさんも、もしよかったら収穫祭に来ていただけませんか? 私も初めてなのでどんなものか説明できないんですけど、でも、絶対に楽しいと思いますから!」
笑顔ではしゃぐアンジェリークの様子を、ニクスもまた穏やかな笑みを浮かべて見守っていたが、彼女のこのひと言で、くすりと小さく笑うとティーカップをテーブルに戻した。
「そうですね。貴女とご一緒ならば、きっとどんな祭りでも楽しいことでしょう。ですがアンジェリーク、大変申し訳ないのですが……まだ、苦手なのですよ」
「え?」
ニクスの言葉に、アンジェリークは寂しそうに眉をひそめた。するとニクスは困ったように微笑みながら、ソファの背もたれにほんの少し寄りかかった。
「海が、ね。コズは開放的で楽しい場所ではあるのですが……海辺の村ですので、私にはいささか向いていないようです。せっかく誘って下さったというのに、お断りするのは心苦しいのですが……」
「あ……い、いいえ。気にしないで下さい。私の方こそごめんなさい。ニクスさんが水辺が苦手だって、知っていたのに」
しゅんと意気消沈するアンジェリークの様子に、ニクスはまた苦笑を浮かべると、彼女の元気を引きだすための呪文を唱えた。
「それにしても……ジェイドは、まだ戻って来ませんね。まったく、こんなに愛らしい貴女を私に預けて出かけてしまうなど、いったい彼は何を考えているのでしょう」
ニクスがため息混じりで呟き始めたとたん、アンジェリークは顔を真っ直ぐに上げ、彼に詰め寄るように腰を浮かした。
「あ、あのっ! ジェイドさんは悪くないんです! 私が一人だと寂しいって我がままを言ったから、ジェイドさんったらわざわざ遠回りして陽だまり邸に連れてきてくれて。だからあのっ、ジェイドさんは全然悪く……ニクスさん?」
口元に手を添えてくすくすと笑うニクスを見ながら、アンジェリークは小さく首を傾げた。やがて彼にからかわれたのだとわかると頬を朱に染め、すとんとソファに座り直して頬をぷっと膨らませた。
「もぉっ! ニクスさんってば意地悪ですっ!」
「これは心外ですね。先ほども言った通り、私は思ったことを正直に話しただけですよ」
言いながらもくすくすと笑い続ける様子を見れば、とても彼の言葉を素直には受け取れない。アンジェリークは赤い顔をしたまま「笑い過ぎです、もうっ」と小さく呟き、ティーカップを口に運んだ。
しばらくするとニクスは笑いをぴたりと止め、まだ少し不機嫌そうにしながら、自分で持ってきたオレンジタルトをつつくアンジェリークを黙って見つめた。そして彼の優しい視線に気がついて顔を上げたアンジェリークに微笑んでみせると、柔らかい声音で言葉を発した。
「アンジェリーク……貴女は、いま幸せですか?」
「ニクスさん……?」
問われたアンジェリークはしばし不思議そうにニクスを見ていたが、やがて手にしていたフォークを皿の上に戻し、ゆったりとした笑みを浮かべて口を開いた。
「――はい。私はとても幸せです」
穏やかだが凛とした答えに、ニクスは眩しそうに目を細めた。そして口元に微かな笑みを浮かべると、小さくうなずいた。
「そうですか。それならよかった」
……貴女がそうして微笑んでいられるのは、彼が側にいるから……なのですね。
「貴女とジェイドはどこか似ていると、以前から思っていました。見返りや報酬を求めず、他人の幸せや笑顔を願える心の持ち主……そう、まさにあなた方は天使と呼ぶにふさわしい」
彼の言葉に、アンジェリークはほんのりと頬を染めたが、すぐに小さく首を振って微笑んだ。
「私、天使なんかじゃないです。いつも一生懸命頑張れたのは、ニクスさん達が居たからですもの。皆さんが私を励まして、力づけてくれたから、私はくじけずにいられたんです。だから私から見たら、皆さんの方がよほど天使みたいに見えます」
アンジェリークの言葉に、ニクスは驚いたような表情を浮かべた。そしてすぐに困ったように微笑むと、肩をすくめてみせた。
「これは……ずいぶんと持ち上げられたものですね。しかし私の場合、どう見ても天使ではないでしょう。むしろ悪魔……良くて魔法使いというところでしょうか」
「ニクスさんったら」
くすくすと笑うアンジェリークを見ていると、とうの昔に忘れたと思っていた温かさが、胸の内に蘇って来た気がした。だがそれは、望んでも決して手に入るものではないことを、ニクスは良くわかっていた。
――自分の望みもかなえられない私は、しょせん人間でしかない。魔法使いになど、なれはしないのだ。
けれど――それでいい。人間だからこそ、彼らを眩しく感じることができる。
人間だからこそ、魔法使いたちの不思議な魔法を、この身に受けることができるのだから……。