幸せの音

(1)

「どこかで、時間を潰していてくれないか?」

そう言って微笑むジェイドを見上げ、アンジェリークは怪訝そうな表情を浮かべた。

「私が一緒だと、なにか問題があるんですか?」

「そうじゃないよ。ただ…」

わずかに視線をそらすと、ジェイドは困ったように口元に手を当てた。

「君が気にしていないことも、君の気持ちも知ってる。けど…やっぱり…見られたくないっていうか…出来れば、見て欲しくない…我が儘だけど、ね」

これから先、たとえどんな事があっても側にいる。そう決めた気持ちに、嘘はない。 それでも、自分が「人間ではない」という証を、彼女に積極的に見せられるほどの覚悟と自信はまだなかった。

だが、それはアンジェリークも同じだったらしく、ジェイドをじっと見ていた彼女は、やがて小さくうなずくと、腕をすっと後ろに回して微笑んだ。

「わかりました。それじゃあ私、その辺のお店をブラブラ見てから、海辺のカフェで待っていますね。レインに、よろしく言っておいて下さい。また、改めて遊びに行くね、って」

「うん、わかった。それじゃカフェで」

「いってらっしゃい、ジェイドさん」

そう言ってアンジェリークは笑顔のまま小さく手を振ると、くるりときびすを返して歩き出した。

彼女の背中がどんどん小さくなるのを、ジェイドはじっと立ちつくしたまま見送っていた。やがてアンジェリークが通りの角を曲がって見えなくなると、ジェイドはわずかに視線を落としたが、またすぐに顔を上げ、アンジェリークが歩いていった道とは逆方向にある「アーティファクト財団」に向った。

「あ、せっかくだからバニラビーンズも買っていこうかな。もうすぐ切れちゃうし」

最初は晩ご飯の食材をあれこれ物色していたアンジェリークだったが、いつの間にかお菓子の材料選びに熱中し始め、気がつけば両手はすっかり紙袋に占領されていた。 心配してくれる店員に「大丈夫です」と笑顔を返し、アンジェリークは店を出てから改めて溜息をついた。

「やっぱり、ちょっと買いすぎだったかも。……んしょっと」

大きな紙袋を抱え直し、空を見上げてから、アンジェリークは歩き出した。紙袋が破れないように優しく抱えて歩きながら、廻りの景色をゆっくりと見回す。

店先を覗く親子連れ。おしゃべりしながら歩く女の子たち。

焼き立てのパンの香りや、お客と元気に話す八百屋のおかみさんの声が、子供たちの楽しそうな笑顔と一緒に、彼女の隣を走り抜けていった。

――こういうの、幸せっていうのかな

自分がこの世界を守ったのだという自覚はあった。だが、それを今ここで叫んだとしても、誰も信じてはくれないだろうし、褒めてくれるわけでもないだろう。 それでも、あたりまえの日常がゆっくりと過ぎていくのを見ていると、優しくて温かいなにかが身体中を満たしてくれる。きっとこれが「幸福」というものなのだろう。

そんな風に、まるで現状を分析するように考えたあと、アンジェリークは紙袋を抱えたままくすくすと笑った。

「やだ。ジェイドさんのクセがうつっちゃったみたい」

――俺は今、すごく幸せだよ。君は幸せかい、アンジェ??

いつも笑っていて。そうすれば、きっと幸せがやって来るから――

彼もよく「幸せ」という言葉を口にする。そうやって今の自分を確認するように、アンジェリークの存在を確かめるように声に出してから、ジェイドはゆったりと微笑む。

そんな彼の笑顔が、アンジェリークは何よりも好きだった。

彼がアーティファクトであるとか、その笑顔も複雑なデータの羅列が生み出すものだとか、そんな事は関係なかった。ジェイドがそこにいて、アンジェリークに向って微笑んでくれる。その事実はアンジェリークにとって、なによりも大切でかけがえのないものだった。

 

――どこに住んでもいいけど、定期的にメンテナンスに来いよ。お前はすぐ無茶をするんだから。

レインにそう言われた時、ジェイドは「わかってる」と答えながら微かに微笑んでいた。それは自分の真実を、すべてきちんと受け止めているからこその笑顔なのだと思っていた。

だから今朝、ジェイドが財団に行くと言うので、アンジェリークも行きたいと言ったのだ。ファリアンに行くのは久しぶりだったし、レインともずいぶん会っていないから、たまには話がしたい。

そんな気軽な気持ちで言っただけなのに、ジェイドはひどく驚いたような表情を浮かべていた。

けれどすぐにいつもの笑顔を浮かべ「いいよ。じゃあ一緒にいこうか」と言ったものだから、一瞬の彼の困惑顔のことなど気にもせずに、のんきにここまで着いて来てしまった。

だがファリアンに近づくにつれ、ジェイドは口数が少なくなっていった。そうして財団の前に到着したとき、彼はアンジェリークを振り返ると「どこかで、時間を潰していてくれないか?」と言ったのだ。

彼が態度にしてくれるほど、言葉にしてくれるほどに、自分は彼に気持ちをきちんと伝えていたか。

恥ずかしいからとか、口にしなくてもわかってくれるとか、そんな言い訳をして、大事なことを伝えきれていないのではないか。

だからジェイドは「人間の偽物」である事実を、アンジェリークに見られることに抵抗を感じるのかもしれない。

「一緒にレインのところへ行けば、色々きけるのに。直すことは出来なくたって、何かあった時の対処法とか、応急処置とか…そういうこと、知っているのといないのでは全然違うのに」

紙袋を何度も抱え直しながら、アンジェリークは海の方に向かってゆっくりと歩いていく。

「ジェイドさんが大事だから、いろんなこと全部知っていたいのに…」

「嬉しいな。君はひとりの時も、俺のことを考えてくれているんだね」

「ジ、ジェイドさん!?」

慌てて振り返るアンジェリークの両手を紙袋ごとそっと押さえ、ジェイドはにこりと笑った。

「アンジェ、気をつけて。振り回すと、せっかくのご馳走が落ちてしまうよ」

「ご、ごめんなさい?ありがとうございます」

「どういたしまして。それにしても、ずいぶんたくさん買ったんだね。重かっただろう?」

そう言うとジェイドは、アンジェリークの手から紙袋の束を軽々と取り上げて右手で抱え直し、左手でアンジェリークの右手を握って歩き出した。

「目に付くものがみんな美味しそうに見えて、つい買いすぎちゃって――」

「ははっ。確かにこのパン、すごくいい匂いがしてる。このまま食べてしまいたいくらいだよ」

「ですよね!」

ジェイドの言葉に、嬉しそうな声をあげたアンジェリークだったが、すぐに首を傾げた。

「でも、ジェイドさん。どうして私がここにいるってわかったんですか? 待ち合わせはこの先のカフェだったのに」

「カフェには行ったよ。でも、君がいなかったから探しに来たんだ。ファリアンに来た時は、絶対に三区のパン屋に寄るから、その辺りにまだいるんだろうと思ってね」

「――私ったら、そんなに長い間うろうろしていたんですね。全然、気がつかなかったわ」

可愛らしいアクセサリーの店を見つけ、まずそこに入ったのがいけなかったらしい。自分では早めに切り上げたつもりだったが、実際はその店で、かなりの時間を過してしまったのだろう。

恥ずかしそうにうつむくアンジェリークを見おろし、ジェイドは軽く笑った。

「いいよ、気にしないで。君を探して歩くのも、俺には結構楽しかった。それに――」

アンジェリークが顔を上げると、ジェイドは彼女の手をそっと握り直した。

「こうして二人で一緒にカフェに行く方が、別々に行くよりもずっと幸せで楽しいからね」