あなたのためにできること

(1)

くやしい。

朦朧とした意識の中にくり返し浮んでくる言葉は、ただこれだけだった。それが自然と表情に現れてしまったのだろうか、ゆっくりとこちらに向かってきていた彼の瞳が、途端に不安げな色を浮かべた。

「苦しいのか、姫さん?」

伺うような声音に千尋はゆっくりと首を振り、断続的に込み上げる吐き気を堪えながら口を開いた。

「く……し、い」

「ど、どこが痛いんだ? 転んだとき、どっか打ってたのか?」

「ちが……くや……しい、の……っ」

伸ばされたサザキの手をきゅっと握り返した千尋はもう一度小さく首を振ると、潤んできた目を細めて唇を軽く噛みしめた。

「だ、て……このくらいで……き、気持ち悪くな……ちゃうなんて……な、情けない」

搾り出すように呟いてから口元に手を当てる千尋の様子を、先ほどまでとは違いぽかんとした表情でサザキは見おろした。だが、すぐに呆れたような苦笑を浮かべたかと思うと、くくっと咽喉の奥を鳴らして笑った。

「な……に?」

すがるように握りしめたサザキの手が微かに震えるのを感じた千尋は、青い顔をどうにか持ち上げてサザキを見る。と、彼女からわずかに視線を逸らして笑うサザキがいたので、千尋は渋い顔をますますしかめて唇をとがらせた。

「な……なんで笑うのぉっ」

不機嫌そうな千尋の声に、サザキはようやく声を立てるのをやめた。しかし顔には笑みを乗せたままで、千尋を優しく見おろしながら彼女の前髪をそっと指で梳いた。

「あー悪い。けどなぁ、こんなときまであんたがあんまりかっこいいからさぁ」

「ど、どこがよぉ」

目が回るわ気持ちが悪いわで、立つどころか座っていることさえ出来ずに寝台にひっくり返っている自分の、いったいどこがかっこいいというのか。

「船酔いして恥ずかしいってんならわかるが、悔しいってのがな。さすがは姫さんだーって感心してんだよ」

言ってまた笑うサザキの態度に、千尋はむうっと眉をしかめた。からかわれているとしか思えないサザキに抗議の鉄槌を浴びせたいところだが、腕を上げることさえおっくうな今の状態では、ただ睨むのが精いっぱいで、それがまた千尋の悔しさを増大させるだけだった。

するとサザキは、さすがに千尋の恨めしげな視線に気がついたのだろう。ようやく笑みを引っ込めると、前髪を梳いていた指を滑らせて彼女の頭をゆっくりと撫で始めた。

「そんな怖い顔して睨むなって。あれだけの嵐だ、船に慣れてない姫さんが船酔いしたって仕方がないさ」

「でも……サザキは全然平気そう、じゃない」

「そりゃあオレは慣れてるし。ってか船長が船酔いとか、そっちのがおかしいだろ」

にやにやと楽しそうな笑みを浮かべるサザキを見上げ、千尋は恨めしそうに口をヘの字に曲げた。

はりきって帆を引っ張る手伝いを申し出たというのに、ひっきりなしに揺れる船の甲板の動きについていけなくて、あっという間にその場にしゃがみ込んでしまった千尋の様子に、最初に気がついたのはサザキだ。

彼は舵を仲間に任せると、ぐらぐらと揺れる甲板の上を何事もないように駆け抜けて千尋を抱き上げ、そのまま船室に連れてきてくれた。そうして一旦は甲板に戻ったが、すぐにまた千尋の処へ帰ってきてくれて、吐き気を訴える背中を撫でてくれたり、脂汗をかく身体を拭いてくれたりと、実にまめまめしく介抱している。 それはとてもありがたいし、なによりすごく嬉しいのだが、それよりも申し訳なさの方が勝っていて、千尋は素直に甘えることが出来ず変に拗ねていた。

「船長だったら……こんなとこ、いたらダメじゃない。わたしより、船の心配、し、なくちゃ」

「それはあいつらがやってるからいいの。船の面倒はみんなで見れるけど、千尋の面倒はオレしかみれねぇだろ」

言うとサザキは千尋の頭を軽く撫で、寝台の端に腰かけていた身体を起こして立ち上がった。その途端、急に不安になった千尋は「あ……」と小さく声を漏らし、振り返ったサザキの不思議そうな表情に頬を赤らめた。

「姫さん?」

「な……でもない。ちょっと……のど、乾いたかな、って」

「そっか。なら、水を持ってきてやる」

千尋の胸の内にまでは気が回らなかったのか、サザキはにこりと笑うときびすを返し、備え付けてあった卓の上に置いた水瓶を手にして歩き出した。

その水瓶の中の真水が、広い洋上では貴重なのだということを千尋は知っている。貴重な水を無駄にしないよう船の連中は、身体を洗うときには海に直接飛び込んだり、雨の日に甲板に寝ころんだりしているのを見ているからだ。

そんな貴重品を、ただの船酔いでかいた汗を拭くためだけに使ってしまったことが、また千尋の心に重くのしかかる。だがサザキはそれにも気がついた素振りはなく「また気持ち悪くなったら、大声でオレを呼べよ……って、具合悪いんだからそりゃあ無理か」と矛盾したことを言いながら頭を掻いた。だが、それもまた彼が自分を心配してくれているからだとわかっているから、千尋はサザキの背中を見ながら微かな笑みを浮かべた。

「んじゃ大急ぎで水汲んでくるから、ちっとだけ待っててくれな。すぐ戻ってくるから」

「……うん」

小さくうなずく千尋の様子にほっとした表情を浮かべたサザキは、言葉通り駆け出した。まだ時々大揺れが来る状態だから危ない、と眉をひそめた千尋だったが、そんな心配は杞憂だとすぐに思い直した。

「サザキ……飛べるんだもんね」

サザキが出ていった入口のほうへ視線を向け、千尋は深いため息をついた。具合が悪いと、考えることが全て悪い方向へ転がっていってしまう。そうわかっていても、もやもやと胸につかえる塊は、たぶん船酔いだけの所為ではない。

「わたし……この船に、本当に必要なのかな……」

呟いた千尋は、右手の甲をまぶたを押さえるように顔に乗せ、すんっと小さく鼻を鳴らした。