「きゃあっ!!」
サザキの腕からすり抜けてしまった千尋の背筋に、ぞくりと冷たい物が走った。それもそのはず、ここは上空何十メートルはあろうかという空の上だ。
彼女の足の下には、ぱっと見には柔らかそうな雲のじゅうたんが広がっているが、それが彼女の身体を支えられる類いのものではないことは、誰でも知っている。
恐怖と混乱で無意識に目をつぶってしまった千尋だったが、彼女の身体は雲をすり抜ける前に力強い腕に丸ごと抱きしめられた。
それは落ちてから、わずかか数秒後の出来事だったのだろうが、千尋にはなんだかとても長い時間のように感じられた。だから肩越しに、サザキの深いため息が漏れ聞こえてきても千尋はまだ夢うつつで、ぼおっとした表情を浮かべたまま、微かに首を動かした。
「……サザ、キ?」
千尋がゆっくりと口を開きながら目を開けると、サザキがもう一度ため息をついた。
「頼むぜ、姫さん……こっちの寿命が縮むっての」
言いながら肩を落としたサザキは、そこでやっと顔を上げ、千尋を見ながら眉をひそめた。
「って、オレが手を離しちまったからだよな。すまねぇ、怖い思いさせちまって……」
「……ううん。私こそごめん、驚かせちゃって」
まだ心臓はバクバクと音を立てていたが、それを隠すように千尋は小さくつぶやきながら微笑んだ。 するとサザキの腕に、また少し力がこもった。それは彼にとって安心した結果の無意識の行動だったのだろうが、意図せずにサザキの胸元に頭を押しつけるようになってしまった千尋は、思わず頬を赤らめた。
――なんか、すごいドキドキする音が聞こえる。
あ……サザキの心臓の音だ。
その音が不思議と心地良くて、千尋はいつの間にか恥ずかしさを忘れると、彼の胸に耳を寄せて目を閉じた。
――トクン、トクン。
――トク、トク、トク。
一定のリズムを刻む鼓動は、やがて千尋自身の鼓動と重なり、同じリズムを刻み始めた。そうして、安堵したように微笑んだ千尋だったが、不意に頭上から名前を呼ばれ、慌てて顔を上げた。
「姫さん……千尋?」
「……え、あ、はい!」
返事をして見上げた先には、困惑したようなサザキの引きつった顔があった。彼は千尋がようやく返事をしてくれたことに安堵して肩を落とすと、照れくさそうに視線を泳がせた。
「あのな……怖かったのはわかるんだが。あんまりしがみつかれると、ちっとばかし飛びにくい、んだよ」
言われて千尋は、先ほどまでとは逆に、今度は自分の方が、サザキにもたれるように身体を密着させていることに気がついた。
「わ、あ、あの、ご、ごめん!」
かぁっと瞬時に顔を上気させた千尋は、慌てて彼の背に廻していた両腕をぱっと離した。と、今度はサザキが慌てて彼女の手首と腰に腕を回し、驚いて目をしばたたせる千尋を軽く睨んだ。
「馬鹿、だからって両手離す奴があるか!!」
「ご、ごめんっ!」
顔を赤らめたまま反射的に謝る千尋をしばらく険しい表情で見おろしていたサザキだったが、やがてぷっと吹き出すように笑い始めた。
「――ったく。ほんと、あんたは極端だな。しがみつくなとは言ったが、手を離せとは言ってないぜ」
「だ、だって! サザキがしがみつくなって!」
「だーかーら程度問題だっての。翼のない姫さんがオレから離れたら、そりゃ落ちるに決まってんだろ?」と続けてなおも笑うサザキを、千尋は迫力のないふくれっ面で睨んだ。
「とにかく、もうちっとおとなしく掴まってろ。しがみつかない程度に、おっこちないようほどほどにな」
そう言うとサザキは、千尋の膝裏に腕を回し、彼女の身体をひょいと抱え込んだ。そして「わわっ!」と慌てる少女ににやっといたずらっぽい笑みを見せると「んじゃ、今度こそ帰るか!」と叫んだ。