酉舵いっぱい!

(1)

最初はたしか「霧の原因がわかるかもしれない」という、いわば『偵察』が目的だった。

しかしふわりと宙に浮かび上がった途端、腕の中にいた少女の歓声と、きらきら輝く瞳を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。

「姫さん、怖かったら言えよ」

「大丈夫、ぜんっぜん平気だよ。うわぁ、すごーい!!」

言葉通り、まったくおびえる様子もなく身を乗り出す千尋を、むしろ押しとどめるほうが大変で、サザキは千尋の腰に廻した腕に、彼女に負担をかけないよう注意しながら力を込めた。

「んじゃ、ちーっとばかり速く飛んでみるか。しっかり掴まってな」

「うんっ!」

軽い笑みを浮かべて問いかけると、千尋はにこりと笑って大きくうなずいた。そうして己の腕をつかむ手に力が入ったのを確認したサザキは、両翼を大きく広げて天を仰いだ。

「……くちゅん!」

千尋が肩を震わせて小さくくしゃみをすると、サザキの顔に浮かんでいた笑みがすっと消え、その瞳に怪訝そうな色が浮かんだ。

「寒くなってきたか?」

とっさにうなずきかけた千尋だったが、肯定すると「じゃあ帰るか」と言われてしまいそうで、まだこの風景を手放してしまうのが惜しかったものだから、慌てて千尋は首を振ってみせた。 するとサザキは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに目を細めて唇の端を微かに持ち上げると、空いている右手の人差し指で彼女の鼻のてっぺんを軽く弾いた。

「うそつけ。姫さんの鼻の頭、真っ赤になってるぜ。寒いんだろ?」

「そ、そんなことないもん!」

唇をとがらせて抗議した千尋は、眉をひそめながら両手で覆うように自分の鼻を隠した。

その様子に苦笑したサザキだったが、思ったよりも時間が経っているのは事実だった。

その証拠に、雲海を照らしていた太陽は飛び上がったときよりも遥かに低い位置まで移動している。

このまま夕暮れになってしまうと、気温は急激に落ちる。そうなったら自分はともかく、本当に千尋が風邪を引く可能性だってある。

と、そのとたんサザキの脳裏には、『従者』というよりむしろ『兄』として彼女が慕っている物腰穏やかな青年や、最近仲間になった『二の姫をお守りすることこそ我が使命!』と張り切る少年らの姿が浮かんだ。

しかも彼らの前で正座させられ、耳を塞ぎたくなる嫌みのひとつやふたつや十や百ばかり、延々と聞かされている自分の姿までご丁寧に想像し、彼は思わずげっそりとした表情を浮かべた。

「どうしたの?」

千尋の声に我に返ったサザキは、怪訝そうな表情を浮かべてこちらを見上げている彼女に曖昧な笑みを返すと「いや、別に……」とだけ答えた。しかしすぐに表情を改めると「あんたに風邪でも引かせちまったら、あとが大変だってな!」と言いながらバサリと大きく翼をはためかせて、くるりと方向を変えた。

「そんなんで『二度と飛行禁止!』なーんてことになっちまうのは、あんただっていやだろ?」

そういうサザキの言葉に、千尋はしばらくしてから「……うん」と小さくうなずいた。しかし、まだこの浮遊感に未練があるらしい彼女は顔を上げると、サザキをじっと見上げた。

「でも私、空を飛ぶのがこんなに楽しいなんて思わなかった。だからまた……こうして連れてきてくれる?」

「もちろん。姫さんがその気なら、オレはいつだって付き合ってやるよ」

得意げな表情を浮かべて大きくうなずいたサザキの態度に、千尋の表情がぱあっと華やいだ。そして彼女は嬉しさのあまり、満面の笑みを浮かべたまま、サザキに飛びつくようにして抱きついた。

「ありがとう! 約束だからねっ!」

「ぅおあっ!?」

突然なんの前触れもなく至近距離に千尋の顔が近づいたものだから、サザキはぎょっとして声をあげた。と同時に、つい腕の力を緩めてしまったものだから、支えを失った千尋の身体は重力に引かれて落下した。