あかねは冷たい廊を渡りながら、小さな手にはぁっと息を吹きかける。しかし白くなったその手はかじかんだままで、あまり暖かくなったとは思えない。
もう一度手を口元に持っていき、深く息を吐きだすために首を前に傾げると、延ばしかけの髪がさらりと肩に流れた。
「やっぱりこの寒さにはなれないなぁ…」
少しだけ感覚の戻った手を擦りあわせながらあかねは呟く。そして軽くため息をつくとぶるっと身体を震わせ、ぱたぱたと小走りに寝殿へと向かった。
琵琶をつま弾いていた友雅は、不意にその手を止めて空を見上げた。
凍てついた空気は空をも凍らせてしまったかのようで、星の輝きは凍りついている。雲一つないその夜空は深々と澄み渡り、月はその中で神秘的な輝きを放っていた。
しばらくその月明かりを目を細めて見上げていた友雅は、やがて口の端をきゅっと持ち上げ呟いた。
「そんなところに立ったままでは風邪を引くよ」
するとその声に答えるように暗やみが動き、微かに衣擦れの音が辺りに響く。そして、白い手が友雅の袍の袖に軽く触れた。
「お帰り、姫君」
「……ごめんなさい。お帰りなさいって言えなくて」
「藤姫は私に勝るとも劣らぬ程の神子贔屓だからね。まぁ、私がいない間、貴女が寂しい思いをしなくてすむのだからよしとするよ。但し…」
そう言うと友雅は、自分の袖を掴んでいるあかねの手を両手で包み込むように握り、少女を見下ろして微笑んだ。
「今度からはもっと早く帰ってくること。こんなに手が冷たくなるまでお喋りに興じるなぞ、妙齢の姫のすることではないのだから。わかったかい?」
「はい。今度からは気をつけます」
あかねは間髪入れずにそう答えると、こくんと頷いた。
子供扱いすると怒るくせに、こういうところはまだまだ子供っぽいのだから。
友雅は一瞬そう思ったが、口に出すとあかねはすぐに怒りだすので黙っていることにした。そのかわり、冷たいあかねの小さな手を擦りながら問い掛けてみる。
「それはそうと、どうしていつまでもあんなところに立っていたのだい? 渡り廊は特に寒いというのに、あのまま立っていたら、きっと今ごろ神子殿は凍ってしまっていたよ」
あかねは友雅を見上げて、ほのかに頬を染め俯いてしまった。だがすぐにゆっくりと顔を上げて再び友雅の顔を覗き込み、やがて口を開いた。
「消えちゃいそうで……怖かったの」
「私がかい?」
友雅はあかねの手を擦るのを止めずに問い掛ける。あかねはこくんと頷く。
「月に照らされてて……それがとっても綺麗で。だから夜空に溶けちゃいそうに思えて、怖くて動けなかったの。動いたら、そのまま友雅さんが消えちゃうんじゃないかって」
どうやらあかねは本気でそう思っていたらしい。軽くため息をつくと、寂しそうに目を伏せてしまった。
そんな少女の様子を見た友雅はあかねの手を擦るのを止め、少女の手をするりと手放した。そして軽く息を吐くと、すぐにあかねの肩を掴んで抱き寄せた。
ふわんと身体が温かくなったあかねは、目をしばたたせながら友雅の袖をくっと握った。
「…友雅……さん?」
「呆れた姫君だね。私の前から消えようとしたのは、いったいどこの誰だったのか忘れたのかい?」
「……だ、だって、あの時は。龍神を呼ばなければ、みんな助からなかったんだし…」
「戻ってこれるとわかっていたのかい?」
「自信はなかったけど、多分大丈夫だと思ったんだもん……」
「あの時、私がどんな気持ちだったか、神子殿にはわからないだろうよ。やっと見つけた片割れを取り上げられそうになった私の気持ちを、神子殿はまるでわかっていない」
「わ、わかりますよぅ。わ、私だって、私だってっ…」
あかねは顔を上げると友雅を見上げて抗議の声を上げた。しかし友雅はふっと視線を逸らして、再びため息をついた。
「いいや。貴女はちっともわかっていやしないよ」
「わかりますってばっ! 友雅さんにもう一度会いたいって、ずっとずっと一緒にいたいって思ったからっ…」
だから戻ってこれたんですっ! と続けようとするあかねの唇に友雅の指がついっと触れた。驚いて見上げるあかねの目の前で、友雅はじつに楽しそうに笑っていた。
そのからかうような笑顔を見た途端、あかねの顔がまるで瞬間湯沸かし器のように真っ赤になり、ますます友雅の笑みを買うことになってしまう。
「神子殿は実に可愛らしいね。そんなに私に会いたかったのかい?」
くすくすと笑い続ける友雅の言葉に、あかねは真っ赤になったまま友雅の腕を振りほどいた。そしてぷいっとそっぽを向くとぶすっとした声で答える。
「し……知りませんっ! 友雅さんのいじわるっ!!」
「可愛い姫君を見るとついからかいたくなる性分なのだよ、私はね」
「そんなの、まるで子供ですっ!」
「そうだね……そうかもしれない。神子殿を誰にも渡したくないと駄々をこねた私は、きっと子供なのだろう。でも……」
そう言うと友雅は立ち上がり、そっぽを向いていたあかねの前に回り込んだ。そしてその場に座ると、あかねの両手を取って優しく微笑んだ。
「子供でよかったと今は心から思っているよ。こうして、貴女が私のもとに居てくれるのだから。私とともにこの世界で生きると言ってくれたのだからね」
いつの間にかあかねの眉間から皺は消え、ほんのりと頬を桜色に染めた少女は、やがて目を細めて微笑んだ。