まばたきを繰り返す桔梗に、秀吉はなおも顔を近づけた。
「見事オレを篭絡できたら…そうだな。丸一日屋敷にこもって、今までに溜めた仕事をひとつ残らず片付ける!ってなぁどうだい?」
にじり寄られて無意識に後ずさっていた桔梗だったが、秀吉の言葉に足を止めると、今度は逆に彼に詰め寄った。
「お仕事、残っているんですか!? だったらこんなところで私の相手などしていないで、早くお屋敷に戻ってください!」
「だから、あんたがオレを骨抜きに出来たら戻るって言ってんの。オレは一切手は出さねぇ…な、いつもより簡単だろ?」
秀吉を睨み上げていた桔梗は、彼の言葉に口をつぐんだ。
確かに、隙あらば桔梗に触れてこようとするのをどうにか防ぎながら屋敷へと上手く誘導し、佐吉をはじめとする羽柴の家臣たちに彼の身柄を渡すのは、下手な任務よりも困難な仕事であることを桔梗は身を持って知っている。そんな彼が条件付とはいえ、おとなしく屋敷に戻って執務をこなすと約束しているならば、多少苦手なことでも試してみる価値はある。
そこまで無言で考えてから桔梗は、やがて小さくうなずくと辺りをうかがい、誰もいないことを確認してから変化の術を解いた。
「わかりました。では…」
「お。いいねぇ、本気になったみたいじゃねぇか」
本来の姿に戻ったほたるの様子に、秀吉はまた楽しげに目を細めてから両手を広げて口角を上げた。
「そんじゃ、どこからでもどうぞ」
「では…失礼します」
小さく返事をしたほたるは秀吉の前にすたすたと歩み寄ると、満面の笑みを浮かべる彼の前でいったん立ち止まって顔を見上げた。それから小さく息を吐くと、無防備な秀吉の懐に身体を沿わせて足を踏ん張った。
「……っ!」
怪訝そうに眉をひそめる秀吉を他所にほたるは顔をしかめ、うーん…っと小さなうめき声を漏らしながら彼の胸元に身体全体を何度も押し付け続けた。
「……つかぬこと訊くけど、もしかして押し倒そうとしてる?」
「そ、そうですっ…!」
答えてほたるは、なおも秀吉の身体をぐいぐいと押している。その必死な様子をしばらく観察していた秀吉だったが、やがて堪えられなくなったようにぷっと吹き出してしまった。
「なっ! わ、笑わないでくださいっ!」
「す、すまねぇ…けど、いくらあんたが並みの女より鍛えてるとはいえ、構えてる大の男を真正面から倒すなんざ、そうそうできやしねぇだろうに」
「や、やってみなければわからないじゃないですか!」
「前向きだなぁ、ほたるは。まぁそんなとこも可愛いけどさ」
言って笑った秀吉はほたるの肩にそっと腕を回し、力いっぱい自分を押してくるほたるの身体を逆に押し返してから彼女の膝を折るようにして地面に押し付けてしまった。
「つまり、こういう風にしたかったんだよな?」
にこと笑いながらほたるを見下ろして言うと、彼女はまじまじと秀吉を見上げ大きな目をさらに大きくした。
「こ、こうじゃありませんっ! 私ではなくて秀吉殿をっ!!」
「違わないだろ。まぁ体勢は逆になっちまったけど」
「それじゃあ全然違うじゃないですか! 手は出さないって言ったのに!」
「そのつもりだったけど、あんたがあんまり必死で可愛いからさ、つい」
「もぅ! 早く退いてください!」
組敷かれているというのに、ほたるは危機感よりも不満の方が大きいらしく、秀吉を真正面から睨み上げたまま頬を膨らませ、まるで子供のように拗ねた表情を浮かべた。
「信じていたのに。嘘をつくなんてずるい……」
ほたるの口から漏れる甘えているような声音に、秀吉は浮かべていた笑みを引っ込めると眉をひそめた。
「おーい…ほ、たる?」
「秀吉殿のいじわる! 大好きだけど……大嫌い」
頬を赤らめてほたるが言葉を続けた途端、秀吉はがくりと頭を垂れほたるをぎゅうと抱きしめて深いため息をついた。
「…まいった! オレの負け!」
「秀吉殿?」
「ったく。オレの弱点ちゃんと知ってるじゃねぇか、ほたるは」
「知りませんけれど? あの、どうして急に?」
秀吉に抱き寄せられたほたるは目を白黒させたまま、彼の背を抱きしめ返すべきかどうか迷うように空に手を彷徨わせた。