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上機嫌

(1)

「お姫さん、お姫さんってば!」

振り返りそうになる自分の心を押さえつけ、どんどん石段を下っていった桔梗姫だったが、あと数歩で下りきると思ったところでやや強引に両肩を後ろに引かれて足を止めた。

「やっと止まってくれた…なぁ、なに怒ってるんだい?」

「べつに……怒ってなどいません」

「へぇ。そんじゃ、なんでこっちむいてくれねぇの?」

返事に窮してうつむく桔梗の様子に、羽柴秀吉は軽く頭を掻くと彼女の肩から手を離した。そしてとん!と石段を数段飛んで降りると姫の前に回り込み、改めて彼女の両肩に手の平を添えると軽く首を傾げた。

「なぁ、お姫さん。怒ってねぇなら…顔、上げてくれよ」

しかし桔梗姫はうな垂れたまま、まるで石段と同化したかのように微動だにしない。しばらく彼女の反応を待ってみたが、やはりぴくりとも動かない様子に秀吉は軽くため息をつくと、彼女の肩をぽんっと軽く叩いて口を開いた。

「頼むから顔を上げてくれ……な、ほたるよぅ」

するとようやく桔梗姫の肩がぴくりと動き、続いて小さく声が漏れた。

「ずるいです……その名前で呼ぶのは」

「あんたが応えてくれるまで、オレは何度だって呼ぶぜ。ほたる、ほたる…オレの一番で、いっとう大事で、大切なほたるちゃんやい」

小さくうめいた桔梗姫は、やがて上目遣いに秀吉を睨みつけてきた。しかしわずかに上げた顔は朱に染まっているし、きつい瞳も僅かに潤んで艶を帯びているものだから、恐ろしいよりもむしろ可愛らしさしか感じられなくて、秀吉は目尻を下げると姫をぎゅっと抱きしめた。

「あーまったく! なんでこんなに可愛いんだ、ほたるは!」

すると桔梗姫ならぬほたるは目を白黒させてから、ようやく本日初めて秀吉の顔をまともに見上げた。

「だ、駄目です秀吉殿! そんな大きな声で名前を呼ばないでください!」

「おっと、そうだった! けどなぁ、あんたが可愛過ぎるから……」

「いいから、もうっ! もっと声を落として! あと、早く離してくださいっ!」

精一杯腕を伸ばすほたるの赤ら顔を、秀吉は目を細めて眩しげに見下ろしながらそっと腕を解いて彼女の身体を開放した。そして安堵の息を漏らすほたるの顔を改めて覗き込み、口元に笑みを浮かべた。

「これで、やっとご対面ってね。そんで、ご機嫌ななめな理由、教えてくれるよな?」

秀吉をちらと見上げたほたるだったが、すぐにきまり悪げに視線を逸らしてしまった。しかし彼の前から逃げる様子はなく、しばらく自分の中で葛藤をしているのか眉間にしわを寄せていたが、やがてゆっくりと息を吐きながら襟の胸元を右手できゅっと掴んだ。

「本当に怒ってなどいません。ただ……苦しくなっただけで」

「苦しい? どっか具合でも悪いのか?」

意外な言葉に秀吉は表情を硬くすると、わずかにほたるの方へ身を乗り出した。するとほたるは小さく首を振り、秀吉から目を逸らしたままでまた口を開いた。

「いいえ、身体にはなんの異変もありません。……少なくとも、さきほどまでは」

ほたるの答えに秀吉は眉をひそめた。いくら忍びとはいえ、姫姿のままあの早さで走って彼から逃げたのだ。呼吸も苦しくなるだろうし、具合だって悪くなる可能性は十分にある。 そう思い至ったら、彼女の躊躇いなど気にかけている場合ではない。なによりも優先すべきは、彼女の無事だけだ。

そこで秀吉は身体をかがめて腕を伸ばし、ほたるの身体をひょいと抱え上げて、駆け下りてきた石段を上り始めた。

「えっ! ひ、秀吉殿!?」

「こればっかりは譲れねぇから、下ろしてだの嫌だのとは言わねぇでくれ」

有無を言わせぬ迫力に、ほたるは思わず息を飲んでうなずいてしまった。それからすぐに我に返ると秀吉の襟元を掴んで軽く引っぱってみせた。

「あの、あのっ……だ、大丈夫です。本当に大丈夫ですから」

下ろしてくださいと続けようとしたが、秀吉にいつになく険しい目線を向けられ、ほたるは口をつぐんでしまった。

「あんたが我慢強いのも、痛みに慣れてるのも知ってる。けど、あんたが辛いのをオレは見ていたくねぇんだ。守ってやりたいんだよ。あんたに惚れちまった男の我が侭、ちっとはきいてくれ」

言って視線を上げる秀吉の顔を見上げ、ほたるは黙って頬を染めた。それから軽くうつむくと自分の胸元を軽く掴んでぽつりと声を漏らした。

「ありがとうございます。けれど……本当に違うんです」