「きゃ!」
小さく悲鳴を上げる桔梗に笑みを浮かべた信長はきびすを返し、新妻を抱いたまま歩き出したのだが、廊下に出るとすぐにぴたりと足を止めて軽く眉をひそめた。
「蘭。貴様、ついて来るつもりか?」
するといつの間にか忍び寄って信長の足元に畏まっていた蘭丸は、迷いもなく顔を上げると信長と桔梗を交互に見てから小さくうなずいた。
「無論でございます。信長様のおわしますところであれば、いずこなりとお供いたします」
「だから貴様は無粋というのよ。桔梗と二人、水入らずの邪魔立てをする気か?」
「滅相もございません。お二人のお邪魔とならぬよう、息を殺し闇にまぎれてお守りするだけでございます」
「やれやれ…わからぬ奴め」
どうあっても着いて来る気配の蘭丸にため息をついた信長はふと腕の中の桔梗に視線を転じ、彼女の耳元に顔を寄せるとこそりとささやいた。
「桔梗、変じよ」
「え?」
「元の姿に戻れと言うておる」
「あ…はい」
信長の言わんとしたことを理解した桔梗は軽くうなずいて、いつも懐に忍ばせている秘伝の忍法帖にそっと手を添えて目を閉じた。刹那、彼女の姿は信長の腕の中で明るく輝き、蘭丸が眩しげに目を細める前で形を変えていった。やがて光が消えるとそこには、黒い忍装束に身を包んだ桔梗姫とは少し違う美しさを纏った女人の姿があった。
「うむ。では、行くぞほたる」
満足げにうなずいて信長は、桔梗姫から変じたほたるを抱いたまま再び歩き出した。隙を突かれた蘭丸はたたらを踏むように立ち上がると慌てて後を追いかけてきた。
「お、お待ちください!」
叫んで追いすがってきた蘭丸の前で信長はもう一度足を止めたが、今度は振り向かずうっとうしそうに肩越しに目線だけで蘭丸を睨んだ。
「なんだ? まだ用があるのか?」
「用もなにも、お供すると申し上げたばかりです!」
「いらぬ。見ての通り、余の側にはほたるがおる。貴様の護衛なぞなくとも、こやつひとりおれば十分よ」
「しっ、しかし…」
「くどいぞ、蘭。それとも貴様、余とほたるが月夜の元で睦みあうをそれほど見たいのか?」
「なっ!?」
信長の言葉に顔を赤らめたのは蘭丸だけではなかった。彼に抱かれたままのほたるも恥ずかしげに顔を伏せ、耳たぶを赤く染め上げた。それをちらと見てから信長は咽喉の奥で笑い、蘭丸の返事を待たずに再び歩き始めた。
「重ねて申すが、ついてくることまかりならぬ。貴様にはまだ早いわ」
そこまで念を押して言われてしまっては、さすがに蘭丸も押し黙るしかなかった。がくりと肩を落とし、それから改めて深々と頭を垂れた。
「奥方様…いえ、ほたる殿。信長様をお頼み申します」
もちろん彼女の返事は蘭丸の耳には届かなかった。それよりも先に信長が、彼女を連れ去ってしまったからだ。
「……本当に、夜に咲くのですね」
感嘆の声を漏らすほたるの横で、彼女の肩を抱きながら信長も感心したようにゆっくりと己の顎を撫でた。
「献上された時は、いっそこじ開けてやろうと思うたほど固い蕾であったが……なるほど、あの宣教師の言は誠であったな」
「そんな! こじ開けるなど可哀想です」
信長の言葉に驚いたほたるが叫ぶと、信長はくくっと笑い彼女の頭を引き寄せて撫でた。
「真に受けるな。そのような無体を、余がすると思うか?」
「いいえ。ですが信長様は時々、ひどく強引なことをなさるから…」
「気に入らぬか? お前も悦んでおると思うていたが…」
「そっ、そういう類のお話ではなくて」
もうっ…と小さく漏らして顔を伏せるほたるを、信長は慈しむように両腕に閉じ込めた。ほたるもそれに抗うことはなく彼に身を預け、安堵したように胸元に頭を寄せた。
そうしてしばらく無言のまま、月夜の下で白く輝く花の花弁を見つめていた。
「……月下美人、というそうだ」
沈黙を破って信長が声を漏らすと、ほたるは小さくうなずいて信長の掌にほっそりとした自身の指を滑らせた。
「まるで月夜に飛来した天女のような…この花に相応しい、素敵な名前ですね」
「そうだな……」
ほたるの指を己の指に絡ませて握り締めた信長は、月下美人の花弁に溜まる夜露がこぼれる様に目を細めた。
「余は……まるでお前のような花だと思った」
「私ですか?」
驚いて顔を上げたほたるにうなずいて見せた信長は、改めて彼女の頭を肩口にそっと押し当てた。
「昼は明智の姫という仮の姿をもち、決して真を現すことはない。お前がお前自身に戻れるのは、ほたるという真っ直ぐな娘に還れるのは夜の闇の中のみだ」
「……」
「もっとも、そう仕向けたのは誰でもなく余自身だがな。お前を愛おしいと思う余の我侭の所為で、お前を桔梗でもほたるでもない者にしてしまった」
「信長様…」
「この花のように、昼に咲くことを許されず、誰も省みるもののない真夜中にひっそりと蕾を開く花にしてしまったのは……余の罪なのだろうな」
「いいえ、いいえ!」
ほたるは信長の腕の中で力強く首を振った。そして絡め合う手に力をこめると顔を上げ、瞳を揺らして微笑んだ。
「花は昼に咲くことを許されなかったのではありません。自ら、夜に咲こうと決めたのです。夜に輝く月を愛し、月のため己の精一杯で咲き誇ろうと決めたのです」
「花もお前も、自ら選んだというのか? 日だまりではなく、冴え冴えとした夜の闇を…」
「はい。私もこの花も、見つけたのです。暗い宵闇の中、日の光よりも眩い一条の光を」
「ほたる……」
「私の月は、信長様……ですから私は、貴方のためだけに咲く月下美人となりましょう。この命、尽きる時まで」
頬を寄せ、耳元にかかる信長の熱い吐息に、ほたるの身体は喜びに震えた。
「そうか…ならば余だけの花、これからも思うさま愛でてやろうぞ」
頬に触れる温かい指と背に廻された腕の力強さが嬉しくて、ほたるは思わずため息を漏らした。
「他の者が見たこともないほど、美しく艶やかに咲き誇らせてやろう……余の腕の中でな」
「……うれしゅうございます」
小さくつぶやいたほたるの声は、信長の唇の中に吸い込まれていった。二人の気配を感じたのか、月の光の中で咲く月下美人の花びらが、歓喜するように風を受けて揺れた。