「桔梗! 桔梗はおるか!」
どこに行くはずもない新妻の名を呼びながら廊下を抜けた織田信長は、辿り着いた奥の間のふすまの前で立ち止まると、もう一度軽く叫んだ。
「入るぞ、桔梗」
「はい。どうぞ」
内からの返事に満足げにうなずいてふすまを開けると、そこには朝餉の席以来、本日二度目に会った新妻が床に手をついて軽く頭を下げていた。
「お疲れさまでございました、上様」
「ああ、確かに疲れた」
軽口のようにぼやきながら中に入ってくる夫の様子に、桔梗は目を細め口元に袖を当てて小さく笑った。
「まぁ。ではすぐに
信長が目の前に座ったのを確認した桔梗は、入れ違うように腰を浮かせた。しかし、不意に伸びてきた腕が彼女の手首を捉えたものだから、桔梗は体勢を崩してよろめいた。
「あ…」
しかし彼女の身体が床に転がることはなく、気がつくと信長の膝の上にしゃがみ、彼の腕の中にしなだれかかるようにして支えられていた。
「かまわぬ。しばし、ここにおれ」
「え?」
「今から余に付き合えと言うておる。今宵は寝かせぬゆえ覚悟をしておけよ、桔梗」
言って唇の端をくっと持ち上げて笑う信長を唖然とした表情で見上げた桔梗だったが、やがて頬に朱を散らせると唇を軽く震わせた。
「の、信長、様…あ、あのっ…」
その態度が期待通りなことに笑みを深めた信長は、視線を彼女から外して部屋の隅へと向けた。
視線の先にいた女房衆は、突然向けられた信長の眼差しに戸惑い身を震わせたが、すぐに互いに目配せをし合うと主夫婦に頭を垂れ、そそくさと退出していった。
「ふむ。さすがは奥付きの者共、なかなかに察しがよいわ」
呟いて信長は、ふすまの向こうに控えているであろう生真面目な小姓に、敢えて聞かせるように声を張った。
「さて、蘭もあれくらいの気遣いが出来るよう、早う大人になって欲しいものよな」
小さな咳払いを返してくるふすまの向こうの気配に信長は再び笑ったが、ふと己の腕の中の妻の様子に首を傾げた。
「どうした、桔梗? なにを赤くなっておる」
すると桔梗は小さく肩を震わせてから顔を上げ、恨めしげな視線を信長に送って口を開いた。
「もうっ。お渡りになった早々におかしなことをおっしゃるから、女房達が妙な誤解をしてしまったではないですか」
「誤解? お前と余は夫婦なのだ、夜を共に過ごそうと言うて何が悪い」
「確かにそうですが…なにも改めてそのようなことをおっしゃらなくても……」
ぼそぼそと語尾を言い淀む桔梗の態度に、信長は堪えられなくなったように笑った。そして、再び困惑した表情を浮かべる妻の顔を改めて見下ろし目を細めた。
「拗ねるな。今宵は共に過ごすと言うても、閨ではない。これより共に、庭の花を愛でに参ろうと誘うておるのだ」
状況が飲み込めないのか、桔梗はぽかんと口を開けたまま、まばたきを何度も繰り返している。その様子が面白くも愛らしく信長は喉の奥で笑うと、彼女の顎にそっと手を伸ばした。
「そのように大きく見開いておると、目が転げ落ちてしまうぞ。それほど凝視せずとも、余の顔など見飽きるほどに見ておるはずだが…まだ足りぬか?」
言いながら桔梗の顎を掴んで顔を近づけた信長だったが、あとわずかで唇に触れると思われたところで小さな手が間に入ってきて阻止されてしまった。
「うっ、上様はお戯れが過ぎますっ! それよりも、先ほどのお話の続きを…」
抵抗しながらも艶めいた瞳を揺らす桔梗に、いっそ力づくで奪ってしまおうという欲が信長の胸のうちに込み上げたが、それこそ今更焦ることなどないと思い直した。なにしろ彼女はすでに自分の妻で、これからの長い刻を共に生きようと誓い合ったばかりなのだ。
僅かの未練を残しつつ身を引いた信長は、それを悟られまいと微かに笑んだ。
「話? ああ、花を見るということか?」
信長の顔が離れると、桔梗は少しだけ瞳を曇らせた。しかしすぐに安堵の表情を浮かべると、夫の言葉に小さくうなずいた。
「はい。花ならば夜が明けてからのほうが美しく見られましょう。それにいくらか月が出ているとはいえ、夜の帳の中はいささか危のうございます。それならば今宵は早く床に就き、明日早起きをして…」
「いや、それでは間に合わぬ」
軽く首を振って見せた信長は、桔梗の手を取ったまま小さく微笑んだ。
「真偽のほどはわからぬが、宵闇の中でしか咲かぬという花を手に入れた。それが今宵ようやく花開きそうだというので、お前に見せてやろうと思ってな」
「夜に咲く…花…」
今度は桔梗が首をかしげる番だった。そもそも花に限らず植物は、日の光を糧として成長するものだ。だからこそ花は昼間鮮やかに咲くし、緑も誇らしげに青く茂るのだ。
その植物の当たり前の営みを拒むように、夜にだけひっそりと咲く花など本当に存在するのだろうか。
そんな桔梗の疑念を表情から読み取った信長は、笑んだまま軽くうなずくと彼女の手を包むように握りしめた。
「なんとも面白き、変わり者であろう? 唐天竺よりわざわざ取り寄せたという代物だが、なるほど庭番によれば昼はまったく開く気配がないらしい。だが蕾はだいぶん膨らんできておるから、伝聞に偽りなくば、恐らく今宵か明晩には咲くであろうと伝えてきおった」
言うと信長は再び桔梗を腕の中に引き寄せて背に手を回すと、彼女を両腕に抱えたまま立ち上がった。
「そのような変り種の花、見逃すわけにはいかぬ。行くぞ、桔梗」