――政務時間以外で呼び出されるなど、尋常ではない。
表面上は冷静を装っているが、いつになく早足なのは彼の胸の内の動揺ゆえだ。先導する蘭丸の普段通りの足取りに多少のいらつきを覚え、逸る気持ちを抑えつつ追いかけた光秀は、信長の私室に通されたことでいよいよ表情を険しくした。
「信長様、光秀殿が参られました」
「うむ。入れ」
蘭丸が障子を開けるのを待ちきれないように素早く室内に入った光秀は、正面で脇息に両肘をついている信長の前で深々と頭を垂れた。
「明智光秀、火急のお召しにより参上いたしました」
「うむ、苦しゅうない。そうかしこまるな」
「はい」
信長の声が意外にも落ち着いていたので、光秀はほんの少しだけ胸を撫で下ろした。どうやら差し迫った事案ではなさそうだと思ったからだ。
しかしその安堵は、突然立ち上がって上座を降りた信長の行動で衝撃へと変わってしまった。信長は光秀の前に歩み寄ると「光秀、面を上げよ」と言われて顔を上げた彼の額に、あろうことかぴたりと手の平をあてたのだ。
やがて固まった光秀から手を離した信長は「うむ……やはり違うか」とぽつり言ってくるりときびすを返した。その言動の衝撃からやっと我に返った光秀は、上座に戻ろうとする信長の背に身を乗り出して叫んだ。
「のっ、信長様!? あの、いまのはいったい……」
すると信長は「ん? ああ……」と、いま改めて光秀の存在に気づいたように肩越しに振り返って目を細めた。
「よい。もう用事はすんだゆえ、帰ってかまわぬ」
「し、しかしっ! 私にはなんのことやらさっぱり……」
珍しく光秀が動揺してなおも問いただすと、信長は上座にどかりと腰を下ろし、脇息に肩肘をついて頬杖をついた。
「――ほたるが熱を出した」
「……は?」
脈絡のない答えに光秀は面食らったが、信長は肩をすくめてかまわず話を続けた。
「あやつによれば、余から移ったに違いないとな。しかし余は熱など出しておらぬ故、お前の思い違いだろうと言ったのだ。そうしたらほたるめ、余以外から移るはずはないと大層怒ってな、寝所に籠って朝から口をきこうとせぬ」
なんとなく話の流れがわかってきた光秀は、思わず額を押さえてため息をついた。
「それで、もしや昼間彼女を訪ねた私が移したのではないかとお疑いになり、確かめるために呼んだ、と?」
「そうだ……しかし、貴様のせいでないとすれば……やはり余の所為ということ、か」
悪びれたふうもなく言う信長に、光秀はもう一度ため息をついて肩を落とした。
「どうやら身に覚えがおありのようですね」
「まぁ……なくはないな」
「でしたらあの子が熱を出したのは、九分九厘信長様の所為でしょう。これ以上へそを曲げられる前に、素直に謝られてはいかがです?」
「……うむ、そうか」
「では、私はこれで」
言って一礼してから立ち上がった光秀は、信長の返事を待たずに足早に退出した。
ただ一つ来た時と違うのは、信長がほたるに平謝りする姿を想像し堪えきれない笑みを口元に浮かべていることだった。