ヴァイオリンアイコン

人気者の君に妬く

(2)

朝もやの中を走る火積は、頭の鈍い痛みに眉をひそめたが、足を止めることはなかった。

昨夜はなかなか寝付かれず、ようやくとろとろとまどろみ始めたところで、目覚ましの音に無理やり起こされたのだ。

ぼおっと天井を眺め、なかなか覚醒しない意識にいっそ今日はサボろうかともちらっと考えたのだが、ただ寝ころんでいると、またおかしなことを考えてしまいそうで、火積は一つ息を吐くとゆっくりと身体を起こして立ち上がった。

そうして何も考えないように、ただ目の前の道だけを目で追いながらいつものロードワークを終えた火積だったが、菩提樹寮の門が見えたところで、怪訝そうに目を細めた。

出かけにはなかった人影が、ぼおっと浮き上がっていた。黙って近づくとその人影は足音に気がついたのか顔を上げ、火積の姿に嬉しそうに笑みを浮かべた。

「おかえりなさい」

「……小日向」

呟いて立ち止まった火積を見上げてまた笑ったかなでは、手にしていたミネラルウォーターのペットボトルを彼に差し出した。火積は一瞬躊躇ったものの、無言で受け取るとフタを開けて中身をぐいっと咽喉に流し込んだ。

そうしてゆっくりと深呼吸をする火積の前で、かなではにこにこと嬉しそうに微笑んだままだ。そんな彼女を改めて見た火積は、また小さく息を吐くとぼそりとつぶやいた。

「こんな早くに、どうした? なんか……あったのか?」

するとかなでは笑みを引っ込めて小さく首を振り、少しだけ唇を動かしかけたのだがすぐに口をつぐんだ。だが、やがてほんのり頬を染めると、視線を地面に落としてぽつりと漏らした。

「ううん、なにもないよ。ただ、会いたいなぁって思って……」

少し治まりかけていた心拍数が、彼女のひと言でまた上がったような気がして、火積は思わずごくりと咽喉を鳴らした。しかしかなでは気がついた様子もなく、火積から視線を逸らしたままで言葉を続けた。

「あのね……今日から東金さんたちにも練習、見てもらえることになったの」

かなでの言葉に、火積は黙ってまたペットボトルを口に運んだ。

神南の二人の申し出など、彼女に言われるまでもなく知っている。夕べの席で聞き耳を立てていたわけではないが、東金の声は彼が奏でる音色と同様によく響くので、聞きたくなくとも嫌でも耳に流れ込んできたのだ。

「それでね。律くんに話したら、東金さんや土岐さんの演奏に触れることはファイナル対策としても有益だし、なにより私の演奏に幅を持たせてくれて、将来を考えても必ず糧になるから、良いところを積極的に盗むつもりで付き合ってもらえって」

「そう……だな」

火積のつぶやきに、かなではゆっくりと顔を上げた。火積はかなでから少しだけ視線を外し眉をひそめていたが、やがて肩を小さく震わせて息を吐くと、改めてかなでに目を向けた。

「あいつらのちゃらちゃらした態度は気に入らねぇが……それと技術は別モンだ。演奏のレベルが高いってのも、悔しいが認めざるをえねぇ。だから……あいつらと練習するってのも、あんたには必要だと思う」

「うん…そうだね」

「あんな芸当できねぇ俺じゃ……あんたの役には立てねぇし、な」

「そんなこと、ない」

かなではふるふると首を振ると、また顔を上げて火積を見上げた。

「火積くんは火積くんだから、私……」

そうして微かに微笑んだのだが、すぐに眉をひそめてうつむくと深いため息をついた。

「神南の人達と練習できるの、楽しみだっていうのは本当。でも火積くんと練習したり、お昼ご飯を食べたりする時間が減っちゃうのは……やっぱり寂しいよ」

かあっと顔が熱くなるのを火積が感じたと同時にかなでは顔を上げ、はにかんだ笑みを浮かべた。

「だからね、火積くんの朝のロードワークに付き合うことにしたの。一緒に走るのは無理だけれど『いってらっしゃい』と『お帰りなさい』って言えるでしょ? それに、朝起きて一番最初に火積くんに会えたら……嬉しいし」

「……う」

呻くように漏らした火積にかまわず、かなでは両の手の平を合わせると、唇に人差し指が触れるか触れないかの位置まで上げて頬を染めた。

「早起きは苦手だけど、朝ご飯まで二人だけで一緒にいられるって思ったら、毎日頑張れる。お昼一緒にいられなくなっても……あ、そうだ。そうしたらお昼のお弁当の代わりに、火積くんの朝ご飯、今日から私が作ってもいい?」

「あっ、あさ、ご、はっ……」

上ずった声を漏らす火積の脳裏に瞬時に浮かんだのは、台所に立ち、可愛らしいフリルのついたエプロンを身につけて振り返ると「お帰りなさい。すぐ出来るから、もうちょっと待っててね」と告げて微笑む、かなでの笑顔だった。

「ふふっ、あとで食堂のおばさんに頼んでみようっと。よぉーし、明日も早起き頑張るね! ……あれ、火積くん?」

かなでの提案を聞いていたはずの火積は、真っ赤な顔をしたままその場にしゃがみ込んで頭を抱えていた。

「火積くん、どうしたの? 火積くん?」と己の名を呼ぶ彼女の声が、やけに甘く響いてくらくらと眩暈がするのは――きっと寝不足の所為だ。

おわり