ヴァイオリンアイコン

昨日よりも想える自信

(1)

「……暑い」

山下公園の一角のベンチに腰かけ、狩野航はうんざりとした表情を浮かべて思わずぼやいた。

それでもここは木の陰になっている分、直射日光からは逃れられている。しかも目の前には横浜の海が広がっているので、視覚的には過ごしやすいはずだ。 だがそれはあくまでも気分的なものでしかなく、日本の夏はどこだってやっぱり暑い。そんな当たり前のことにまたため息をついた狩野は、隣でしきりにタオルで汗を拭いている後輩の伊織浩平が「……あ」と小さく漏らした声に反応して振り返った。

「おっせーっての。先輩をいつまで待たせ……小日向さん?」

てっきり缶ジュースを買いに行かせた後輩が戻ってきたのだと思ったのだが、狩野の声に反応してこちらを向いたのは、数週間前から居候している菩提樹寮の住人の一人、小日向かなでだった。

「こ、こんにちは」

狩野の隣で伊織がぺこりと頭を下げると、かなでは彼らの方へ早足で向かってきた。しかし、いつもなら笑顔で挨拶を返してくるはずの彼女は、今日はなにやら険しい表情を浮かべている。狩野が反射的に身を引きそうになるくらいのしかめっ面のまま、かなでは二人の前に歩み寄ると、文字通り二人に詰め寄った。

「狩野さんっ! 伊織くんっ!」

「は、はいっ!!」

「え、え? あ、あの……ど、どうしたの、小日向さん?」

彼女の剣幕に背筋を伸ばして声を裏返らせる狩野とは対照的に、伊織はびくりと身体を震わせはしたものの、すぐにかなでの顔を見上げて逆に問い返した。するとかなでは唇をぎゅっと噛み、眉尻を下げて両手の拳を握りしめたかと思うとほとばしるように叫んだ。

「ひどいと思いませんか!? あんまりです!」

「え? え? え?」

彼女に怒鳴られる覚えのない伊織は、目を白黒させるしかない。やがて我に返った狩野が立ち上がり、かなでの肩を軽く叩いた。

「こ、小日向さん? とりあえず、ここ、座って」

するとかなではしばらく無言だったが、やがて小さくうなずくと伊織の隣にゆっくりと腰かけた。ほっと肩を落とした狩野は、そんな彼女から少し距離をおくと改めてベンチに座り直した。

「ええと……なにがあったか話してくれると、おれらも力になれるかもしれないんだけど。……話、聞いてもいいかな?」

なるべく彼女を刺激しないよう、あくまでも彼女の意思を尊重するようにと言葉を選んで伝えると、かなではゆっくり顔を上げた。その表情は先程と比べるとだいぶ落ち着いていて、どうやら自分の言動に今さらながら気がついたらしい。ばつが悪そうに「そうですよね……ごめんなさい」と小さくつぶやいて頬を染めた。

彼女が落ち着きを取り戻したことに安堵したのか、伊織はほっとため息をついて緊張を解くと、笑みを浮かべて小さく首を振った。

「き、気にしなくていいよ。それより、ボクらでよかったら話を聞くから…ね?」

そう言って笑う伊織につられるようにかなでも微かに微笑むと「ありがと伊織くん、狩野さんも…」とつぶやいて、はぁっとため息をついた。そして何を思いだしたのか、また眉をひそめたかと思うと口を開いた。

「さっきまで音楽室に友達といたんです。それで練習が終って、片づけしながらおしゃべりしててたら、いつのまにかその……す、好きな人の話に、なって……」

「あー、女子は好きだよなー、そういう話」

頭を掻きながらぼやく狩野をちらっと見た伊織は、すぐにかなでに視線を戻した。

「それでその……そしたら、み、みんなが…………火積くんのどこがいいの?って……」

ぼそっとつぶやくと顔を赤らめてうつむくかなでを前に、狩野と伊織は顔を見合わせた。どうやら彼女の友人達の間でも、かなでが火積に好意を寄せているというのは周知の事実らしい。

しかしそれを問い詰められたからといって、先ほどのような剣幕を起こすというのは納得がいかない。恥ずかしくて逃げ出してきたというのなら、それこそ狩野と伊織に対して八つ当たりをするというのはおかしい。

「んー。まぁおれはよくわかんないけど、そういうのは女子同士のコミュニケーション手段っての? 向こうもさ、悪気があったわけじゃなくて、好奇心っていうか……ちょっと、小日向さんが羨ましかったんじゃないのかなぁ。……な?」

同意を求めるように伊織に目を向けると、彼はぱちくりと目を見開いてからこくこくとうなずいてみせた。

「うん、ボクもそう思うよ。だから、小日向さんがそんなに気にすることじゃ……」

「ないんじゃないかな?」と続けようとする伊織を見上げたかなでは、そのまままた眉をひそめて唇をとがらせた。

「だったら、あんなこと言うはずないです! 火積くんはぶっきらぼうで横柄で恐そうだなんて言うんですよ!? 絶対不良だから付き合わないほうがいいって!」