「きゃっ!」
「小日向!」
小さく叫んだ火積は驚いて目を見開き、振り上げていた拳を素早く降ろして、崩れ落ちそうになるかなでの身体の下にすっと差し込んだ。そして彼女の腰を支えるようなかたちで抱きとめると、ほっとわずかに息を吐いてから、かなでの後頭部に視線を落とした。
「大丈夫か? 膝とか、打ってねぇか?」
「う……うん。大丈夫、です」
「そうか……」
改めて安堵の息を漏らした火積は、そのままゆるりと顔を上げてかなでの背後を睨もうとしたが、そこにはもうこの顛末の主犯者の姿はなかった。
「……水嶋の野郎、逃げやがった」
「え……?」
低く舌打ちをする火積を見上げたかなでは、そのままゆっくりと自分の背後に視線を向けた。そして火積の言う通りそこに新の姿がないのを確認すると、困ったように微笑んだ。
「……あ、はは。新くんらしいっていうか、なんていうか……」
「あの野郎っ……すまねぇ、小日向。後でもう二三発、ぶん殴っとく」
「い、いいよっ! 私、そんなに気にしてないから!」
火積の物騒な提案に、かなでは慌てて首を振った。自分をダシに逃げ出した新には確かに呆れるものの、彼のキャラクターはどうにも憎めない。おそらく夕食の席辺りでこそっと側に来ると「かなでちゃん、さっきは本当にゴメン! ごめんなさいっ!」とまるで叱られた大型犬のように肩を落として謝ってくるだろう。
そうなったら、かなではただ笑って許すしかなくなるのだから、だったら今ことさらに騒ぎ立てるほどのことでもない。
そんなことを苦笑しながら火積に告げると、彼は複雑そうな表情を浮かべて黙り込んでしまった。だがすぐに小さくため息をつくと、かなでの身体を抱き上げるようにして身体を起こした。
「まぁ……あんたが怒ってないっつうなら、俺がしのごの言う筋合いはねぇな……」
「火積くん?」
急に覇気のなくなった火積を見上げ、かなでは小さく首を傾げた。すると火積はそんな彼女をちらっと見おろしなにか言いかけたが、かなでの腰をしっかりと抱きしめたままの己の手に気がつくとかあっと顔を赤らめ、慌てて彼女から腕を離して半歩下がった。
「すっ、すまねぇ!」
「……え?」
火積の慌てようにまた首を傾げたかなでだったが、飛びし去った火積の腕があった場所を見おろし、数秒遅れて頬を紅色に染めた。
「あ……え、と」
「悪気があったわけじゃねぇが、咄嗟だったから掴む場所選んでられなかったっつうか、あんたが転ばねぇようにするので頭がいっぱいだったっつうか……と、とにかくすまねぇ!」
心底困ったように頭を掻きながら、真っ赤な顔でいつになく早口でもごもごと言い訳をする火積をしばらく見上げていたかなでは、やがて眉を寄せるとくすくすと笑い出した。
「こ、小日向……?」
突然のかなでの笑いに、火積は困惑の表情を浮かべた。だがかなでは彼の前でなおも笑い続け、やがて微笑みを浮かべたまま火積を見上げた。
「大丈夫だよ。火積くんは、新くんみたいなことはしないって知ってるから」
「そ、そうか……」
「うん。私、火積くんのこと信頼してるもの」
かなでの言葉は、おそらく口にしたそのままの意味なのだろう。だがそう言いながら浮かべる彼女の可愛らしい笑みに、火積はつい深読みしそうになる自分の感情を押さえつけると、所在なげにまた頭を掻いた。
そんな火積の表情をしばらく笑んで見ていたかなでだったが、やがてその笑みは苦笑に変わった。そして火積からわずかに視線を逸らすと、ほうっと小さなため息をこぼした。
「……けど……」
ぽそっと何かつぶやいたかなでに、ようやく少し赤みの引いた顔を向けた火積が眉をひそめた。
「小日向? ……あんた、実は怒ってんじゃねぇのか?」
火積の言葉にかなでははっと我に返ると、わずかに顔を赤らめつつ慌てて首を振った。
「ううん、本当に怒ってないってば」
「……ほんとか?」
「うん、本当です。あ、でも……」
「ど、どうした?」
語尾を濁したかなでの態度にぴくりと肩を震わせた火積は、ごくりと息を飲み込んで彼女をじっと見つめた。するとかなではちらっと火積を見上げて視線が合うと、いっそう赤い顔をしてから小さく唇を動かした。
「火積くんが、新くんと足して二で割ってくれたらなぁとは……ちょっと思った、けど」
「……あ?」
あっけにとられた表情でまじまじとかなでを見つめる火積は、瞬時には意味がわからなかったらしい。
だが、やがて彼女の発した言葉の意味がわかったのか「そ……そりゃ、どういう…」と掠れた声を漏らすと、それを耳にしたかなでは慌てて視線を逸らしてきびすを返してしまった。
「っ! おい、こひ……!」
追いかけてくる火積の声と目線から逃げるように、かなではぱたぱたとスリッパを鳴らして女子寮の方へと駆け出した。
「そうだっ! 私、いちごみるくアイス食べようって思って、急いで帰ってきたんだった!」
冷凍庫に入れっぱなしのアイスが溶けるはずはないのだが、かなではわざとらしく「早くしないと暑さで溶けちゃうっ!」と声を張り上げて走り去ってしまった。
後に残された火積は、しばらくぼおっと彼女が消えた方を見つめていたが、やがてどかりとラウンジの大振りな椅子に腰を落とすと両手で頭を抱えた。
「……くそっ。こんな暑さ、アイスぐれぇじゃ消えねぇだろ……」