真夏の日差しは、日が傾いてもけっこうきつい。冷房の効いた音楽室から廊下を抜けて学校の中庭に出た小日向かなでは、青空を見上げて目をすがめた。
「……早く帰ろ」
つぶやいて歩を早めたかなでは、すぐに手の平からにじんできた汗を意識してヴァイオリンケースの取っ手を慎重に握り直した。
幸い学校から寮までは歩いて10分あるかないかという距離だから、大汗をかく前に自室に帰れる。そして思った通り「菩提樹寮」という大層な名が付いているが、実際のところ学生たちの間では「お化け屋敷じゃない?」という不名誉な噂がまことしやかに飛び交っている古びた外観の建物は、すぐ彼女の視界に入ってきた。
うっすらと額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、かなではほっと息を吐き出すと口元に微かな笑みを浮かべた。
「昨日買ったいちごみるくアイス、食べられてないといいんだけど……」
念のためアイスカップの蓋に『小日向』と書いてはおいたものの、うっかりすると響也に食べられてしまったりするのだ。
「まったくもう。幼なじみだからって、なにしても許される訳じゃないんだからねっ」
先日の出来事を思い出して眉をしかめたかなでは、ほんの少し足音を荒げて菩提樹寮の大振りな玄関扉に手をかけてゆっくりと開いた。そして誰に言うでもなく「ただいまー」と習慣のように声を出しながら玄関ホールに足を踏み入れると、突き当たりの食堂からにぎやかな声が聞こえてきた。
「かっなでちゃーん。おかえりーっ!」
声の主は確かめるまでもない。元気な出迎えの声にかなでは小さく笑み、そのまま食堂へと入っていった。そしてラウンジの方へ半身を向けようとしたところで、件の相手の大きな身体が、華奢なかなでをすっぽりと覆い隠すように抱きついてきた。
「きゃあっ!」
「んーっ。朝も可愛かったけど、夕方のかなでちゃんも柔らかくて可愛いなぁv」
言いながら頬を頭にすり寄せてくる青年に、かなでは困惑の表情を浮かべ「あ、新くん。あのねっ…」と抗議しながら腕を突っぱねようとした途端、かなでを拘束していた水島新の長い腕がするりと外れた。
「……ううっ。また殴るし」
うめいて涙目になりながら自分の後頭部を撫でさする新を見上げ、かなでは申し訳ないと思いつつもほっと安堵の息を漏らした。そんな彼女にちらっと視線を向けた火積司郎は改めて、後頭部を撫でながら眉をひそめる後輩をぎろりと睨みつけた。
「何度言っても聞かねぇてめぇが悪いんだろうが。いきなり女に抱きつくな」
「だってー、かなでちゃんが可愛いんだもん。仕方ないじゃないですかぁー」
「まだそんな寝言抜かしやがるか……」
すごみのある声で唸るようにそう言うと、新は両手を顔の前でクロスさせて上体をやや後ろに引いた。
「うわぁ、暴力反対っ! ……もおっ、可愛い後輩の恋をどーして応援してくれないんですかぁ!?」
「誰が可愛い後輩だ、ああっ? それにてめぇのは、恋っつーより下心だろうが」
「あ、火積先輩上手い。確かに『恋』は下に心って書きます」
解説者のように淡々と述べる新の態度に、火積の右眉がぴくりと上がった。それを見た新はすばやくかなでの背後に回り込むと、小さなかなでの身体に隠れるように身を縮こませ、彼女の両肩を背後からぐっと掴んだ。
「かなでちゃあん、助けて。あの人怖いよぅ」
「え。ち、ちょっと新くんっ??」
「てめっ! なに隠れてやがんだっ!」
苛立った様子で拳を振り上げた火積が一歩前に踏み出すと、それと同時に新はかなでの背中をぽんっと軽く押した。いきなりの衝撃にかなでは足を踏み出そうとしたが、摺った床にスリッパの先が引っかかり、足をもたつかせてそのまま前につんのめった。