ヴァイオリンアイコン

その術を僕は知らない

(1)

最近、友人である小日向かなでの様子がおかしい。

そんな思いをもう一人の友人、夏川美由紀にこっそり告げてみると、彼女も辺りを見回してから机越しに身を乗り出し、口元に手を添えて声をひそめた。

「やっぱ、楓ちゃんもそう思ってたんだぁ。実はさ、私もなーんか気になってたんだよね」

「あ、やっぱり…よかった」

自分だけの錯覚ではなかったことに胸を撫で下ろした亘理楓だったが、すぐに「って、安心してる場合じゃないよね」と呟きながら軽く眉をひそめた。

「表面的には以前とあまり変わらないけれど、授業中も時々遠くをぼーっと見ていたり、ため息をついたりしてるの。何か悩みでもあるのかなって…」

「そうそう、なんか元気ないんだよね。かと思うとさ、この間移動教室で廊下歩いてたら、なんだか突然拗ねたみたいにほっぺた膨らまして、すたすた歩いて行っちゃうし。まぁ声をかけたら、すぐ謝ってくれたけどね」

机に肘をついて両頬を横に広げながらその時のかなでの顔を真似る美由紀に、楓は思わずぷっと吹き出した。

「やだ、美由紀ちゃんったら」

「だって、実際こーんな感じだったんだよぉ」

そう言いながらますます頬を膨らませてみせる美由紀の様子にひとしきり笑い声を立ててから、楓は眼鏡を外して目元を拭った。

「もう美由紀ちゃんってば、私を笑わせてる場合じゃないでしょう?」

「あはは、確かに。でもさぁ、ひなって悩みとか愚痴とか私達には言わないよね。まだ遠慮してるのかなぁ」

「遠慮してるんじゃなくて、もともとそういうタイプなんだと思う。辛いこととか苦しいことは、出来るだけ出さないようにしてるんじゃないかしら」

眼鏡をかけ直しながら楓が言うと、美由紀は頬杖をついたまま眉尻を下げてため息をついた。

「でもそれだと、いつかひな自身がいっぱいいっぱいになっちゃうじゃん。せっかく友達になったんだから、そういうことも話して欲しいなって思うんだよね」

「そうね。楽しいことを共有するのも友達だけど、辛い時に相談にのったり、大変な時に助けてあげるのも友達の役目だものね。彼氏には話せなくても、女の子同士なら話せることだって沢山あるし……」

うなずきながら相槌を打つ楓の言葉に、美由紀は急に眼を輝かせると、再び身を乗り出して楓の目の前に人差し指を近づけた。

「きゃっ! み、美由紀ちゃん?」

「そうそれっ! ひなってば、いつの間にか彼氏できちゃってたし! しかも2組のあの火積司郎だよ、もう二度ビックリ!」

大げさに驚いた様子で額に手を当て天井を見上げる美由紀に、楓は眼を大きく見開いてからくすりと笑った。

「驚きすぎだってば。まぁ私も驚いたけど……でも、ひなちゃん吹奏楽部に入ってからは、気がつくといつも火積くんの話をしていた気がするの。だから、もしかしたら…とはちょっと思っていたけど」

「え、マジで! すごいね、私なんか全然気がつかなかったよ!」

再び目を見張る美由紀に、楓は無言のまま困ったような笑みを浮かべた。すると美由紀は「あ、もしかして莫迦にしてる?」とちゃかしてから、慌てて首を振る楓にからからと笑ってみせた。

「冗談、怒ってないって。でもそっか、ひなってけっこう早くから火積を意識してたんだ。……なら両想いになってよかったよ」

「うん、そうだね。吹奏楽部も全国大会で優勝したから、来年も部として存続できそうだし、ひなちゃんも火積くんの恋人になれたし……本当によかったよね」

「そうだねぇ……」

しみじみと呟き、友人の幸福に嬉しさとほんの少しの羨ましさを感じつつ眼を細めた美由紀と楓だったが、同時に我に返ると顔を近づけ合った。

「ってさ! それならなんであんな暗い顔してるわけ!? あの子いま、誰よりもリア充じゃん! 一番楽しいはずじゃん!」

「そうなの。だから、どうしたんだろうって不思議だったの。美由紀ちゃん、なにか心当たりないかなって!」

「ないよ! ってか楓ちゃんが気づかないのに、私が気がつくわけないって!」

お手上げとばかりに両手を振り上げた美由紀だったが、その手が背後から近づいてきた人物に当たったことに気がつくと、慌てて振り返った。

「あ、ごめん! って、ひ、ひな!?」

「ううん、大丈夫」

自分の席に戻ってきた過中の人、小日向かなでを見上げてわずかに顔を強ばらせた美由紀だったが、それをフォローするように楓は普段通りを装って口を開いた。

「お帰りなさい。古典の呼び出し、なんだったの?」

曖昧な笑みを浮かべながら楓の隣の席に座ったかなでは、友人二人を交互に見つつ恥ずかしげに頬を掻いた。

「この間の小テスト、解答を一問ずつずらして書いちゃってて……これだと点がなくなってしまうから、今日の放課後、特別にもう一度受けさせてくれるって」

「ドジっちゃった…」と困ったように笑うかなでを、美由紀と楓はじっと見つめた後で顔を見合わせた。

「ひなって古典、わりと得意だったよね?」

「うん……いくらうっかりでもそこまでいくと、やっぱり様子がおかしいと思う」

ぼそぼそと顔を寄せ合って話す二人の態度に、さすがにかなでも不審を持ったのだろう。怪訝そうに眼を細めて身を乗り出したところへ、一瞬早く間合いを詰めてきた美由紀に驚いて反射的に身を引いてしまった。

「あーっ、もう黙ってらんない! ひな、黙ってないで理由を話しなさいっ! いますぐっ!」

「え、わ、わけって…い、いま話したけど…?」

困惑するかなでをちらと見てから、楓は肩をすくめて美由紀の顔の前に手を差し出した。

「もう美由紀ちゃんってば。そんな急に言われたって、なんのことだかわからないじゃない」

「だってこっちから訊かなかったら、この子ずーーっと黙ってるよ! そのうち破裂しちゃうよ!」

「は、破裂っ?」

穏やかでない美由紀の言葉に目を見張るかなでに、楓は「ご、ごめんね」と小さく詫びてから美由紀の口元を両手で覆った。

「もがっ!」

「もうっ美由紀ちゃん少し黙ってて! あのね……私達、いま話していたの。あなたがここのところ、ずっと元気がないねって」

そう言って見つめ返してくる楓に、かなでは虚をつかれたように眼を大きくしたが、わずかに視線を逸らして軽く笑った。

「そうかな、自分ではわからないけど。ほ、ほら、転校してきてから色々あったし、それがようやく落ちついてきたから、そういうのでちょっと疲れたのかも」

「確かにそれもあるかもしれないけど…でも、以前はどんなに大変なことがあっても、ため息なんかついたりしなかったと思うの。なのに近頃は、気がつくといつも大きなため息ついているし…」

楓の手をやっとどかした美由紀もまた身を乗り出し、ひるむかなでに構わずに詰め寄った。