などと土浦があれこれ葛藤しつつ財布の中身を思い浮かべていると、彼の手を引っ張る香穂子がくるりと方向を変えた。
「え?」
土浦は背後に遠ざかる派手な看板の方を名残惜しげにちらちら見ながら、少し足を早めて香穂子の隣に並んだ。そして彼女の手をくいっと引くと、声を潜めてつぶやいた。
「おい、香穂! どこ行くんだよ!」
「その先にね、美味しいたい焼き屋さんがあるんだ」
「た、たいや、き?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった土浦は、慌てて咳払いをすると香穂子の耳元に顔を寄せ、なるべく平静に聞こえるよう努めながら口を開く。
「だったら、なにもこんなとこ通らなくても……」
「だって表通りからだと、ぐるっと駅を回らなきゃいけないんだよ? 前に天羽さん達と来たときはもう少し早い時間だったからよかったけど、さすがにこう暗いと一人で来るのは……でも今日は土浦くんが一緒だから」と言いながら、照れたように笑う香穂子の横顔を見ていた土浦の口から、やがて複雑なため息が漏れた。
「ってなぁ。だからって、俺と来るってのもどうかと思うぜ……」
「どうして? 土浦くんなら安心じゃない」
「ガン飛ばすの得意だし、強そうに見えるから絡まれる心配もないし」と、まったく警戒心のない笑顔を向けられて、土浦は再びため息をつくとがっくりと肩を落とした。
「まぁ、そーだな、うん。……そういうことにでもしとかないと、いろいろやるせなくなるし」
土浦のあまりの落ち込みように、香穂子は怪訝そうに首を傾げた。だがすぐに目を細めると、彼を睨むように見つめる。
「あー。もしかして……なにか期待、した?」
香穂子がぼそりとつぶやくと、土浦はびくりと肩を震わせた。そして顔を上げると、否定しようかどうしようかためらっているのか視線を泳がせたが、やがてそっぽを向いて口をとがらせた。
「そりゃあ思わなかったっつったら……お前」
「えっちーぃ」
「……るせぇ」
付き合いだして数ヶ月経つのだから、そういう気持ちになってもおかしくはない。大体そんなことすら思い浮かばずに、あっけらかんと土浦を連れ廻す香穂子のほうが、彼からすればよほどおかしく思えた。
そんな気持ちを誤魔化すように、自分の手の中にすっぽりと納まっている小さな手の上で微かに指を動かすと、それに答えるように、彼女がきゅっと手を握り返してきた。
香穂子の手は、ほんのりと温かくてすべらかだった。その感触はまた、ぞくりと土浦の心を逆撫でた。このまま、ほんの少し力を込めてこの手を引いたらどうなるのだろう。それはまったく簡単で、後は黙って連れて行ってしまえばいいだけだ。
「………ごめんね」
土浦が黙っているから不安になったのだろう。香穂子はややうつむき加減になると、ぼそぼそと言葉を続けた。
「私、ちょっと考えが足りなかったかも。でも………あのね、誤解しないで欲しいんだけど。いやだとか、土浦くんが嫌いだとかじゃなくて、そこは絶対誤解しないで欲しいんだけど……そういうのまだちょっと早いかな、っていうか……心の準備っていうか、なんか成り行きみたいなのって………やっぱりよくないと思うし」
耳に届く香穂子の声を、土浦は黙って聞いていた。それは彼女の奏でるヴァイオリンの音色と同じで、すんなりと土浦の中に溶け込むようで、それがとても心地よい。 やがて土浦はもう一度ため息を零してから、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……たい焼き、おごりだろうな?」
「え?」
香穂子が首を傾げると、改めて土浦は彼女に向き直った。そうしてすっかり普段の彼に戻ると、もう一度口を開いた。
「俺に礼がしたいんだろ? なら、今日はお前のおごりで当然だよな?」
「あ、うん。もちろん!」
そう言って香穂子は「えっと、今日は付き合ってくれてありがとう。で、これからもよろしくお願いします」と続けて頭を下げた。
「言っとくが、俺は味にはけっこううるさいぜ? アンコ物は特に」
土浦の口調が普段通りになったことに安心したのだろう。香穂子は明らかに安堵したような表情を浮かべながら笑った。
「あはは知ってるー。大丈夫だよ、私が美味しいって思ったんだから」
「でもなぁ、お前の味覚って時々おかしいから」
「むーっ、失礼なっ!」
素直ではない言葉がぽんぽん口をついて出たが、言った土浦自身も、聞いて抗議の声を上げる香穂子も、そんな言葉など気にしてはいなかった。
こんなにも毎日が新鮮で楽しい。いつだって、二人でいるのが自然で心地よい。
だから、焦る必要などない。一歩一歩。少しずつ、二人で歩いていけばいい。
こうして――ずっと手を繋いで。
「……ありがとな、香穂」
再び歩き出した香穂子の頭の上から、土浦の声が優しく響いた。そのひと言に込められた土浦のたくさんの想いが嬉しくて、香穂子は微笑みながら彼の手をしっかりと握りしめた。
「うん……私こそ。ありがとう、土浦くん」
コートを着ていても、夜風はまだまだ冷たく寒い。それでも繋いだお互いの手だけは、まるで春の日だまりにいるように、ぽかぽかと温かかった。