ヴァイオリンアイコン

ありがとう

(1)

耳をくすぐるようなピアノの音が心地よくて、香穂子はうっとりと目を閉じた。と、その途端に、優しい旋律に低い声が混じる。

「テンポが遅れてる。集中しろ」

はっとなって手元に意識を戻すと、香穂子は口の中で小さく「集中、集中」と呟いた。

 

「……さっきは、ごめんね」

帰り道で前を向いたまま呟くと、並んで歩いていた土浦が横を向き、怪訝そうに眉をひそめた。

「さっき?」

「うん。練習中、集中力が途切れちゃったでしょ」

「……ああ」

「ダメだよね、私。すぐいろんなこと考えちゃうから、ちっとも上達しないし」

そう言って香穂子は土浦を見上げると、自分の頭にこつんと拳を当てて肩をすくめた。

「上達はしてるぜ」

土浦は香穂子にそう答えると、かばんを持っていない右手をズボンのポケットに入れた。

「集中してないってわかるようになったし、すぐ気持ちを切り替えられるようになってる。それも立派なレベルアップだ」

土浦にあっさりと褒められたのが嬉しくて、香穂子の顔に微かな笑みが浮びかけた。が、すぐに彼女はきゅうっと口元を引き締め、自分よりも頭一つ分上にある彼の顔を軽く睨んだ。

「土浦くん、最近私に甘すぎない? そんなこと言われたら、すぐ調子に乗っちゃうんだから」

香穂子に睨まれた土浦は、一瞬虚を突かれたような表情を浮かべたが、すぐに微かな笑みを浮かべた。

「そこも上達したとこ、だな」

「え?」

香穂子が怪訝そうに眉をひそめると、土浦は上体をかがめ、彼の行動に怯んで一歩下がった香穂子の顔を覗き込んだ。

「以前だったら、俺が褒めると手放しで喜んでただろ? でも今は、自分の演奏に満足してないから、単純に喜べなくなってる。つまりお前の耳や感覚、音楽に対する取り組み方が上達したってことだ」

「ほんとに、そう思う?」

「別に、技術レベルが上がるだけが『上達』ってわけじゃない。っても、確かに自分じゃわかりにくいか」

言うと土浦は背筋を伸ばし、改めて香穂子を見おろしながら目を細めた。

「ヴァイオリンは門外漢だからはっきりしたことは言えないが……俺が感じた限りでは技術面も上がってるぜ、お前」

「……そっか」

土浦の言葉に香穂子は頬を染めると、嬉しそうに微笑みながら星が光りはじめた空を見上げた。

「土浦くんがそう言ってくれるなら、少し自信を持とうかな。うん、私はすごい!」

「……ちょっと理詰めで褒められると調子に乗るとこは、まだまだだなぁ」

「えーっ? さっきと言ってること違ぁーう!」

不満げに香穂子が声を荒げると、土浦は楽しそうに笑う。笑いながらポケットから手を出して香穂子の方へ伸ばすと、彼女も心得たように土浦の手に指を滑り込ませた。

 

放課後は一緒に練習し、そのまま二人で下校するようになって数ヶ月が経つというのに。 最初のころは気恥ずかしくて照れ臭くて、何度も伸ばしかけては引っ込めていた土浦の手も、今ではこうしてごく自然に香穂子の手を握れるようになっているというのに。

未だにこんななにげないやりとりすら、新鮮で楽しく感じてしまう。その度に土浦は「俺は、本当にこいつが好きなんだなぁ」と、しみじみ感じていた。

ちらと見おろせば、香穂子は隣でまだ膨れっ面をし、ぶつぶつ言いながら歩いている。なのに手は素直に繋ぐのだから、土浦の口元につい満足げな笑みが浮かぶのも仕方がない。

だがそんな甘い空気は、彼女に手を引っ張られた途端にふっと消えた。そして、今度は土浦が不服そうな声をあげる。

「なんだよ。どうしたんだ?」

「あのさ、今日……これから時間、ある?」

「これから?」

首を傾げて香穂子を見おろすと、彼女は背の高い土浦を見上げてから神妙な面持ちでうなずいた。

「うん。付き合ってもらいたいところがあるの」

彼女の行動範囲は大体把握しているつもりだった土浦だが、今はどこに行きたいのか見当もつかなかった。 だが時計の針はすでに6時を廻っているし、まだ冬の寒さが厳しいこの季節、道を照らす街頭の明りはあるものの、辺りはすでに夜と同じ暗さだ。そんな時間に、例えにぎやかな界隈であったとしても、彼女を一人で放り出せるはずがない。

「……まぁ、時間はあるといえばあるが」

土浦はとりあえず了承の言葉を返したが、怪訝そうに片眉を上げて香穂子を見つめた。

「って、今ごろからどこに行くんだよ? 買い物か?」

すると香穂子は嬉しそうに微笑み、土浦の問いには答えずに、彼の手を引っ張って再び歩き出した。

「うん、すぐそこ。いつか土浦くんと一緒に来たいなって思ってたんだ」

そう言いながら香穂子は、土浦を引っ張るようにして駅前通りの方へ向って歩き出した。だが彼女は繁華街に入る直前で方向を変えると、土浦が足を踏み入れたことのない路地を進みはじめた。

「おい香穂、買い物なら逆方向だろ?」

「ちょっとわかりにくいんだけど、こっちの方が近道だから」

狭い路地を歩きながら自信満々で答えるものだから、土浦はやがて諦めたように小さくため息をつき、黙って香穂子の背中を追いかけることにした。 そうしてようやく路地を抜けたのだったが、そこに建っていた建物の看板が視界に入った途端、土浦はぎょっとなって顔を強ばらせた。

「かっ、香穂っ……こ、ここっ……」

派手なネオンが点滅する看板には「宿泊料金」と書かれているが、建物の外観といい、塀の陰に隠れるように存在する入り口の雰囲気といい、明らかに普通の宿泊施設ではない。

 

いつか俺と来たかった……って。ち、ちょっと待てっ!

そう思ってくれていたのは大変ありがたいし、健康な高校2年生の男子であり、彼女持ちの身としては大歓迎である。だが、それならばもう少し事前に言ってくれ。こっちにもその……いろいろと準備があるんだよ!と土浦は慌てた。

あ、でもそういう場所なんだから、必要なものは揃ってるか。って、金……くそっ、小遣いおろしとけばよかった! 足りない分の金出してくれっていうのは、いくらなんでも男としてみっともねぇよなぁ。