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「早く逃げなさい、シルマ」
ベットの傍らで気丈に自分の手を握る黒髪の娘に、男は上品に微笑みかけた。
「いいえ。私は逃げるわけにはいきません。アディルとの約束です。陛下のお役に立つようにと」
優しく娘の黒髪を撫でると、穏やかだが逆らえない口調で男は続けた。
「だからこそ、あなたはここにいてはいけない。
アディルの元へ行かねばならないよ。この事を息子に知らせて欲しい。……これは私の命令だ」
「陛下…」
娘はしばし男の薄緑の瞳を見上げていたが、ふっと目を伏せこくんと頷いた。
「……わかりました」
「いい子だ。部屋の外は兵士で溢れているだろうからその窓から抜けるしかないが、あなたなら出来るだろう?」
「はい」
娘はフードの付いた短めのマントを羽織り、その場にぬかずくとベットに横たわる男の手を取ってその手の甲に額を軽く押し当てる。
「地霊のご加護が陛下の元にありますように」
「気をつけてお行き。……私の娘よ」
娘は何かを吹っ切るかのように立ち上がると、窓の桟に手をかけた。
そして一瞬振り向き、すぐにふっと姿を消す。
男は横たわったまま軽く息を吐く。
やがて足音が響いてきたかと思うとそれは部屋の前で止まった。
ゆっくりと扉が開かれ、男は伏せていた目を扉へ入り口へと向けた。
「陛下、いやケレトハシース=アッシャムラーア。
この宮殿は我々の手で完全に掌握しました。無駄な抵抗はなさらぬよう」
「わかっておる。……結局おまえのたどり着いた結末はこういう事か、フェルカド」
フェルカドと呼ばれた指揮官らしい青年はくっと唇の端を歪め、鋭い視線をケレトに向けて答える。
「結末ではありませんよ、陛下。今からが始まり。……私の本当の人生の幕開けだ。その為の礎になっていただく。
マルドゥーク国王ケレトハシース=アッシャムラーア」
フェルカドは腰に差した剣を抜くと、ゆっくりとその切っ先をケレトに向けた。