彼は森の湖のほとりにいた。膝を抱え、うずくまるようにしてきらめく湖面を見つめている。
少年、というよりむしろ可憐な少女を思わせる彼が、そのすみれ色の大きな瞳を潤ませている姿は、さながら迷い出てしまった妖精を思わせた。
いつの間にか彼の周りには、この森に棲む動物達がいた。いつも明るく楽し気に語りかけてくる少年のただならぬ様子に戸惑いながら、それでも彼のそばに寄り添っている。
少年の名はマルセル。次の緑の守護聖として、この“聖地”と呼ばれる所に連れて来られて、まだ一月にもならなかった。
最初は何もかもが新鮮だった。見るもの聴くものすべてが珍しく、楽しかった。
特に、故郷でも自分専用の小さな庭を持つ程、植物が好きな少年は、先輩である現緑の守護聖カティスの庭園を見たとたん歓声をあげた。
「うわーっ! ここのお庭を僕にくれるんですか、カティス様?」
「俺はもう世話してやれないからな。可愛がってやってくれ。まあ、お前なら大丈夫だと思うが」
自分の一番尊敬する人、カティスが信頼してくれている。そう思うだけで、マルセルは自分がたいそう大きくなったような気がした。
「はい。僕、一生懸命育てますね。綺麗なお花をうーんとたくさん!」
「ああ、頑張ってくれよ、マルセル」
「ふふっ、まかせてください!」
この時の言葉にいつわりはなかった。昨日の夜までは…。
ゆうべ彼は夢を見た。そこは彼の庭だった。
聖地で貰った庭園ではなく、両親が作ってくれた懐かしい小さな庭。いつもの様に泥だらけになって、土を掘り種を植えた。
「これでいいな。あとはお日さまに綺麗な花が咲きますようにってお願いしなくちゃ……。さっ、帰ろっと」
「ただいまぁ!」
彼は扉を開けると、勢いよく居間へと走った。そこは母親のお気に入りの場所で、窓の近くの椅子に腰掛け、外を眺めながら編み物をするのが日課となっていた。
そんな母親を見るのが、マルセルは何よりも好きだった。
廊下から中を覗いてみる。いつもの様にこちらに背を向けて母は編み物をしていた。
「聞こえなかったのかな。よーし…」
クスッと軽く笑うと、足音を立てないようにこっそり窓に近付く。
「ただいまぁ! お母さん!」
背中から抱き締めるように母親に飛びついた…はずだった。
「えっ…?」
手が軽く宙を泳ぐ。母親の体をすり抜けるようにし、彼は前のめりに倒れこんだ。ひどくゆっくりと。
「ただいま、お母さん」
呆然と座り込むマルセルの後ろで姉の声がした。
「あら、おかえりなさい。もうそんな時間なの? 大変だわ」
「もう、編み物してると夢中になっちゃうんだから」
椅子の上に編み物を置くと、微笑みながら母親は姉と一緒に台所へと歩いていった。マルセルの方を振り返りもせずに…。
「お母さん! お姉ちゃん! 僕は、僕はここにいるよ! 答えてよ、ねぇ!」
ふり絞るような自分の声と、頬をつたう冷たい物を感じて目がさめた。
僕は……どうしてここにいるの?
この宇宙のみんなのため? それは家族と離ればなれになってまで守らなくてはならないものなの?
突然、彼のすぐ脇で俯いていた小鹿がピクッと顔をあげた。耳をそばだてている。何かを聞き取ったようだった。
「どうしたの? 何か聞こえるの?」
水のせせらぎに混じってたしかに聞こえている、微かな声。
「鳥の声だ。鳴いてる……ううん、泣いてるっ!」
溢れそうになった涙を袖口で無造作に拭うと、彼は立ち上がった。
そこには大木があった。おそらくこの聖地でも1、2を争う大きな木。
「そういえば、ここには見晴しの木っていう大木があるんだよって、ランディが教えてくれたっけ…」
少しだけ自分より先輩の風の守護聖の言葉を思い出しながら、木の根元に目を向ける。
「泣いてたのは……君だったんだね」
マルセルがそっと手をのばした先には、まだ産毛が風にそよぐ程に幼い小鳥の雛が震えていた。少しためらいながら抱き上げると雛はビクッと身じろいだが、それでもおとなしく手の中におさまった。
大木を見上げる。光の反射に思わず瞼を閉じそうになったが、目を細めて枝のひとつひとつを見上げると、それ程高くない場所に鳥の巣を見つけることができた。
「……あそこからおっこちちゃったんだね」
雛をそおっとポケットに入れたマルセルは、ピピッと小さく鳴いた雛に視線を落として微笑んだ。
「大丈夫、すぐ連れていってあげるよ。ほんの少しだけここで我慢しててね」
そして雛が自分と樹の間に挟まってしまわないよう、身体をねじって硬い木の皮に指をかけ、登り始めた。
「ほら、君の赤ちゃんだよ。ちゃんと連れてきてあげたからね」
枝にまたがって親鳥に話しかける。下からは見えなかったが餌の時間だったらしく、せわしなく鳴く雛に口移しで餌を与える親鳥が、ちょうど巣とマルセルとの間にとまっていた。
「この子にもごはんを食べさせてあげてね」
そう言って雛を巣に戻そうとしたとたん、親鳥がその手に噛み付いてきた。
「うわっ! ごめん驚かせてしまって。でも僕は君たちになにもしないよ。ただ落ちていたこの子を返してあげたいだけで……」
だが親鳥は彼の言葉などまるで聴いていないように、今度はその手に包まれた我が子にくちばしを向けた。
驚いたマルセルは咄嗟に手を引き、胸に雛を抱えるようにして叫んだ。
「どうして!? この子は君の子供だよ! どうしてわからないのっ!?」