『秘めた恋』
それが、ロザリアが降誕祭の会場で演奏した曲の名だ。
柔らかく甘く、けれどどこか物悲しい旋律は、ただ聴くだけであれば優しい印象を与えるので、会場の雰囲気を壊したりはしない。そのことを十分に考え、そしてこの曲をロザリアは選んだ。
いつもならば、これほどはっきりしたテーマを持つ曲を人前で演奏することはなかった彼女が、今回敢えてそれを選んだのは、今の自分を表現するのにこれ以上の楽曲はない、と思ったからだった。
言葉で告げることの出来ない恋心。自分は女王候補で、あの方は――女王に仕える守護聖だから。
でも今夜は聖なる夜。神の御子が生まれ来て、世界中で愛の奇跡が起きると言われている降誕祭だ。
そんな夜だから――せめて旋律に自分の心をありったけ込めて、あの方の耳に届けたい。
たとえ意味が伝わらなくても、応えてくれなくてもいい。
ただ今夜だけは、いまの自分の素直な想いを、あの方の心に響かせたい。
何故なら今日は降誕祭。世界中の人々に愛が溢れ、幸せな願いに包まれる日なのだから。
ジュリアスの奏でる主旋律に合わせて軽くハミングをしていると、不意に目の前にグラスが差し出された。
ロザリアがゆっくりと顔を上げると、小振りのカクテルグラスの中で揺れる液体よりも鮮やかな紅の髪の持ち主が、彼女を見おろして小さく微笑んだ。
「カシスソーダだ。もっとも、アルコールは一滴も入っていないけどな」
「――ありがとうございます」
ぎこちない笑みを浮かべてグラスを受け取ると、ロザリアはグラスの中身を確かめるようにちらりと見てから、グラスの縁に唇を寄せた。
こくり、と咽喉を鳴らしてひとくち飲むと、紅い液体は口にはとても甘く、けれどあとにほんのりと切なさを含んだ酸味が残った。
その赤さが彼の人のようで、口に含んだ感触がまるで自分の心と同じようで、ロザリアはグラスを見おろし、思わず唇を噛みしめた。
「…カシスは、すこしアルコールが入っていたほうがいいと思います」
そう言ってグラスの中身を一気に飲み干すロザリアの様子に、オスカーは微かに目を見開いたが、すぐに軽く笑むと広間の中央へと視線を戻した。
「そうだな。この切ない酸味には、アルコールがよく似合う。だがそれだと、お嬢ちゃんにはまだ早いだろう?」
空になったカクテルグラスの柄をきゅっと握りしめ、正面を見つめたままロザリアは口を開いた。
「わたくしだって、切なさもほろ苦さも――よく知っていますわ」
……アルコールのものではないけど。
口の中だけで小さく呟くと、ロザリアはオスカーに気づかれないように、そっと自分の胸元を右手で握りしめた。心臓が早鐘のように鳴っているのを感じる。
ほの暗い照明のおかげで隠されているだろうが、きっと自分の頬は真っ赤に染まっているだろう。
オスカーが隣にいる。
彼がすぐ側にいて、この時間と空間を自分と共有してくれていることが、とても嬉しくて……こんなにも切ない。
いつからこうなったのか、いまではもう分からない。ただ気がついたら――自分は彼に恋をしていた。
演奏しているときはただ夢中で、聴いてもらえるだけでいいと思っていた。けれど今は、彼がどう感じたか、少しでも自分の気持ちが伝わったのかを確かめたかった。
ロザリアはオスカーの横顔をちらりと見上げ口を開きかけたが、思い直したように視線を背けると軽くうつむいた。
自分がこんなにも臆病なくせに欲深い人間だったなんて、今まで知らなかった。
そんな未知の感情を自分にもたらした彼の存在が許せなくて、憎らしくて……なのに、好きで好きでたまらない。
相反する心を抱え、空になったグラスを見つめているロザリアの様子に気がついたのか、オスカーはしばらく黙って彼女を見つめていた。
そして――ふっと軽く微笑むと、ゆっくりと口を開いた。
「甘く柔らかく……どこか、切ない。お嬢ちゃんのヴァイオリンは、はるか昔の初恋のようで……懐かしかった」
ロザリアはその言葉にゆっくりと顔を上げると、恐る恐るオスカーの瞳を見つめた。すると彼は優しく微笑み「――素晴らしい演奏だったぜ」とささやいた。
辺りに響く音楽は、聖夜に相応しくあたたかで優しいものなのに、演奏しているマルセルもアンジェリークもリュミエールも、ジュリアスでさえ楽しそうな笑顔を浮かべているというのに、いつしかロザリアは、自分がぽろぽろと涙を溢していることに気がついた。
左手に持っていたグラスを慌ててテーブルに置くと、ロザリアはハンカチを取りに行こうとオスカーに背を向けた。すると後ろから彼の腕が伸びてきて、ロザリアは気がつくとオスカーのマントに包まれるようにして、彼の腕の中に抱かれていた。
「待てよ、お嬢ちゃん。このままじゃ、俺が泣かせたと皆に思われちまう」
まさにその通りじゃないですか、と抗議したかったが、いま口を開くと恨み言よりも思いの丈をぶつけてしまいそうで、ロザリアは慌てて右手で口元を押さえた。
「だから、場所を貸してやる。立ち去るのは……俺の腕の中で、涙を乾かしてからにしろよ」
そう言って優しく背中を叩くオスカーの手の温かさと、鼻腔をくすぐる彼の香りを感じたロザリアは、しばらく唇をぎゅっと噛みしめていたが、やがて目元を緩ませ「ずるいで、す。オスカー様……」と小さく呟き、堪えきれずにオスカーの胸に顔を埋めた。
――神様、これも聖夜の奇跡ですか?
この方が……まるで、わたくしの想いを受け止めてくれたように思えるのは……。
これがすべて聖なる夜の魔法だというならば……あとひとつだけ、奇跡を起こして。
どうかお願い、世界中の時の流れを変えて下さい。
大好きなこの方のぬくもりを感じている時間が――少しでも長く続くよう、に……。
演奏が終わったマルセルはジュリアスを見上げてにこりと笑うと、視線を人垣の後ろに移した。そしてオスカーの隣で笑みを浮かべて拍手をするロザリアを見つけると、アンジェリークと顔を見合わせてうなずき合い、二人で並んで走り出した。
「ロザリア、どうだった? ちゃんと聴いてくれてた?」
「私、真ん中でちょっと失敗しちゃったけど、最後は練習通りに出来てたでしょ!?」
マルセルとアンジェリークがロザリアに駆け寄る前に、オスカーはロザリアの耳元でなにかこそりと呟くと顔を上げ「二人とも、いい演奏だったぜ」と笑みを浮かべてから、くるりときびすを返して立ち去ってしまった。
「ありがとうございます、オスカー様!」
オスカーの背中に向って叫んだマルセルは、改めてロザリアに向き直ってにこりと笑った。
「ね、どうだった? 僕、自分では上手く弾けたんじゃないかなって……あれ、どうしたの?」
「ロザリア??」
アンジェリークとマルセルに顔を覗き込まれたロザリアは、ついにいたたまれなくなってうつむいてしまった。
自分でもわかるほど熱を持った顔と心を、どう隠したらいいのかと必死で思考を巡らせながら――。
「そうだ――お嬢ちゃんが『秘めた恋』を届けたい相手を教えてくれないか? どうやら俺は、そいつと決闘しなければならないことになりそうだ。
どうしてかって? 決まっているだろう。お嬢ちゃんの奏でる『愛の調べ』は、全て俺だけのものなんだから――」