ロザリアはいわゆる『題名のない楽曲』が好きだ。
固有名詞がついている曲を演奏すると、どうしてもその名前に引っ張られてしまう。
そうして名に縛られた曲は、演奏者による解釈を差し挟めず、良くも悪くもみな同じような印象を与えられているものだ。
『英雄』という名がついていれば雄々しく、『乙女』という名であれば可憐に。
『悲しみ』という名の曲は悲哀を込めて、『喜び』の名を持つ曲は弾むようなステップで。
そういったテーマに沿う曲を弾いてみたくなるときもある。けれども実際に演奏したあと、いつも思うのだ。
もっと自由に表現したい。楽譜を最初に見た時、目に飛び込んできた音符の踊るままを、感じたままを、ヴァイオリンの弦に乗せてみたい。
だからロザリアは、『題名のない楽曲』を演奏することをいつも好んだ。自分の感じたままを、思いを、そのまま曲に託し奏でることを……もっとも愛していた。
ゆっくりと腕を下ろし頭を一瞬あげると、ロザリアは改めて深々と頭をたれた。
彼女の演奏にしんと静まり返っていた広間は、彼女の会釈を合図としたかのように、ざわめきと拍手の渦に包まれた。
興奮気味に頬を薔薇色に染めたロザリアが広間の中央から歩き出すと、弾かれたようにマルセルは彼女に駆け寄った。
「すごいよロザリア! 僕、感動しちゃった!」
「ありがとうございます」
マルセルの真っ直ぐな称賛の言葉に、ロザリアは嬉しげな笑みを浮かべて彼を見返した。
「噂には聞いてたけど、本当に大したものだねぇ。なんで今まで、私に出し惜しみしてたのさ」
背後からふわりと抱きしめられて驚いたロザリアが振り返ると、オリヴィエがほんの少し拗ねたような口調で呟いた。
「ジュリアスには時々聞かせてたんでしょ? 『また一段と腕が上がったようだ』なんてさー、得意げに言ってるんだもん。妬けるったらないよ」
「え? 僕もアンジェも、時々聴かせてもらってましたよ。ジュリアス様のお屋敷で」
マルセルがきょとんとした表情でオリヴィエを見上げると、彼はますます不機嫌そうに眉をひそめ、ロザリアの頭の上に顎をこつんと乗せた。
「ずるいじゃない、ロザリア。私に内緒でそんなことしてるなんて」
「ず、ずるいって、そんな、オリヴィエ様……」
困惑して狼狽えるロザリアの代わりにマルセルが、オリヴィエにやや非難めいた視線を向けた。
「そうですよ、ロザリアは悪くないですってば」
「そう? なら、ロザリアのヴァイオリンを独占してるジュリアスが悪いんだ」
「それも違いますぅ。だったら今度、オリヴィエ様もご一緒にジュリアス様のお屋敷に行きましょうよ」
「あ、それはパス」
さらりと言い放つとオリヴィエはロザリアの身体から手を離し、ほっと安堵するロザリアの前に回り込むと、彼女の顎にすいっと指を滑らせた。
「ジュリアスと一緒だと、いろいろうんちく聴かされて面倒だろ。だ・か・ら……今度は、私だけのために弾いてくれないかな、お姫様?」
「ええっ!? 抜け駆けするなんて、オリヴィエ様の方がずるいじゃないですか! 僕だって彼女にお願いしたかったのに!」
マルセルがオリヴィエに詰め寄ると、彼はアハハと楽しそうに笑い、年若い後輩を見おろして綺麗に片目を瞑ってみせた。
「先手必勝。そうそう、大人はずるいもんなんだよ、坊や♪」
「もぉ! すぐに大人とか子供とか言うんだからぁ!」
マルセルが呟いてぷうっと頬を膨らませたその表情が可愛らしくて、それまで緊張して二人の守護聖を交互に見ていたロザリアは、失礼だと思いながらも、つい笑いが口から溢れてしまった。その途端、マルセルがロザリアに視線を移し、軽く眉をひそめた。
「もぉ! 君まで笑わないでよ!」
「ご、ごめんなさい、マルセル様」
謝ってはみたものの、ロザリアはなかなか笑いを治めることが出来ずにいた。しばらくマルセルは恨めしげに彼女を見ていたが、やがてその笑いにつられたように表情を緩め、屈託のない笑顔を浮かべた。
「もぉ、しょうがないなぁ。じゃあ今度、僕と一緒に演奏してくれる? そうしたら笑ったことを許してあげるよ」
「ええ、ぜひ」
「おや。アンタ、楽器なんか扱えたのかい?」
オリヴィエが驚いたような表情を浮かべると、マルセルはにこっと笑ってうなずいた。
「はい。僕、最近、ジュリアス様にピアノを教えていただいてるんです。それでこの後、リュミエール様とご一緒に演奏させていただくんですよ」
「へぇ……」
言われて広間の中央に目を向けたオリヴィエは、一瞬目を大きく見開いた。
「なに!? ジュリアスも弾くの!?」
するとマルセルがこくりとうなずき、ロザリアの方へちらりと目線を向けた。
「はい、僕と連弾して下さるんです。じゃあ、僕、そろそろ行くね。君のようには演奏できないけど、一生懸命頑張るから、最後まで聴いててね、ロザリア」
「はい、楽しみにしています」
ロザリアがにこりと微笑んで首を傾げると、その様子をじっと見ていたオリヴィエが、不意にすたすたと歩き出した。
「オリヴィエ様?」
ロザリアが声をかけると、彼は歩きながら振り返った。
「私のリュート、持ってくる。ジュリアス達だけに良いとこ見せられたんじゃ、我慢できないからね!」
そう叫ぶとオリヴィエは、更に速度を早めて広間を後にした。その後ろ姿を唖然として見送っていたロザリアとマルセルは、やがてどちらからともなく顔を見合わせ、お互いの視線が合うとくすくすと同時に笑いだした。
「ふふっ。オリヴィエ様って、意外と負けず嫌いだね」
「本当、意外ですわね」
しばらく二人で笑っていると、広間の中央から『チリリリン!』というトライアングルの音とアンジェリークの可愛らしい声が響いた。
「マルセル様ぁ! もう、始めちゃいますよぉ!!」
「あ!」
小さく叫ぶとマルセルは肩をすくめ、ロザリアを振り返ってぺろりと舌を出した。
「始める前から失敗しちゃった。じゃあ、行ってくるね!」
「はい、拝聴させていただきますね」
ロザリアが小さくうなずく様子に満足げな笑みを浮かべたマルセルは歩き出したが、数歩進んだところで立ち止まり、くるりと振り返った。
「あ、そうだ! ねぇ、さっき君が弾いたのってなんて曲なの?」
「え?」
ロザリアは彼の問いに、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。
だがその事をマルセルが再び問いただす前に、アンジェリークの「マルセル様、早く早く!」という声がかかったので、彼はちらりとロザリアを見ながら「あとで聞かせてね」と告げると、またきびすを返して走り去った。