棚から本を取りだしパラパラとページをめくっていたオスカーは、軽く溜息をつくと本をそっと閉じて棚に戻した。
別に、今すぐ読みたい本があったわけではない。なんとなく、今日は静かな場所で過ごしたいと思っただけだったからだ。
「この俺が、な」
自分自身に呆れたように、彼は小さくつぶやいて笑った。
飛空都市には季節はない。だが、暦は主星と同じように設定されており、今はその暦の上では12月で冬になっている。冬とは思えぬ暖かい日差しが図書館の窓から射し込むのを見ながら、オスカーはもう一度溜息をつき、先ほど戻した本を再び手に取った。
「まぁ、たまにはこんな休日もいいか」
言いながら、貸し出し受け付けに向って歩き出す。向う途中に通り過ぎる本棚に目ぼしい本を見つけると、それをひょいっと取りだして小脇に抱える。そうして5冊目の本を手にした時、本棚の隙間から見えたテーブルに腰掛ける少女の後ろ姿が目に入り、オスカーは手を止めた。
「……ロザリア?」
つぶやいてしばらくすると、オスカーはふっと軽く笑った。そして半分手にしかけていた本を棚に戻すと、足音を殺して歩き出した。
ロザリアはノートになにか熱心に書き込んでいた。
やがて彼女は顔を上げると、積み上げていた本の山の中から一冊を抜きだし、パラパラとページをめくる。目的の文章を見つけるとそれを黙読し、またさらさらと小気味よい音を立ててペンを走らせた。
再び手を伸ばしてページをめくる。と、その彼女の白い手の上に、大きな手が不意に乗せられその動きを奪ってしまった。途端にロザリアが不愉快そうに溜息をつく。
「…離して下さい。これではページがめくれませんわ」
眉をひそめて見上げてくる少女の顔は、心持ち赤いような気がした。が、それが照れからきたものなのか怒りからなのかがわからない今は、深入りしないほうが懸命だと考え、オスカーはそっと手を引いた。
「――勉強熱心なことで」とひと言、牽制の言葉をかけるのはもちろん忘れないが。
すると少女は澄ました顔を微かに背け、背筋を伸ばして誇らしげに呟いた。
「当然です。これがわたくしの義務ですから」
「確かに。だが、あまり肩に力を入れるのも考えものだぜ」
軽く笑うと、オスカーはロザリアの向かい側の椅子に腰を下ろす。そして怪訝そうにこちらに視線を向けた少女へ笑顔を送る。
「休日まで図書館で勉強とは多いに結構だが、たまには羽を伸ばすことも必要だ。もう一人のお嬢ちゃんみたいにな」
「あの子は羽を伸ばしすぎだと思いますけれど。きっと伸び切ってしまって、たたむことが出来なくなってしまったんですわね」
不機嫌そうに呟くと、楽しそうに頬杖をついて自分を見ているオスカーを上目遣いににらむ。
「それはそうと、オスカー様はここで何をなさっていますの?」
「ん、俺か? …待ってるんだ」
「何を?」
「お嬢ちゃんが俺に惚れるのを」
「なっ!」
ガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、顔を真っ赤にして自分を睨み付ける少女の顔を見上げながら、オスカーはくっくっと口元を軽く押さえて笑った。
「冗談だ。いいから座れよ、お嬢ちゃん。――注目の的になってるぜ?」
言われてロザリアは周囲を見回した。休日を潰してまで図書館に来ている人間は、この飛空都市ではそう多くない。が、そのため余計に椅子を勢い良く動かした音は館内に響き渡った。
書司の女性の怪訝そうな視線や、あちこちの本棚の間から降り注ぐ視線に、ロザリアは身体を縮めるように椅子に座り直す。そして、目の前で憎たらしい笑顔を浮かべたままの青年を睨み付けた。
「もう十分楽しまれたでしょう? わたくしをからかって満足なさったのなら、早くお帰り下さい」
「つれないな。待ってるって言っただろう? 勉強が一段落したら庭園を散歩でもしないか? ちょうどクリスマスとかいう主星のイベントで盛り上がってるらしいぜ」
「結構です。いつ終わるかもわかりませんし」
「構わないさ。終わるまでいくらでも待っていよう」
「せっかくの休日でしてよ。わたくしなんかに構わなくても、オスカー様なら他にいくらでもお相手がいらっしゃるんじゃありませんか?」
「わかってないな。俺はお嬢ちゃんと過ごしたいって言ってるんだぜ?」
「またそんなことばっかり。戯れ言はもう沢山ですわ」
「いいや、戯れ言じゃない」
オスカーは小さく首を振ると膨れっ面をして睨み付けてくるロザリアを見つめ直したが、すぐに視線を背けて声を殺して笑いだした。
すると当然のようにロザリアはかっとなったが、かろうじて理性を働かせるとテーブルの上に軽く身を乗り出し、小さいが鋭い声で抗議の言葉を述べた。
「なんですの、いきなり笑うなんて。いくら守護聖様とはいえあまりにも失礼ですわ!」
「いや、すまない。確かに失礼だった」
謝りながらも、オスカーはくすくすと笑い続けている。
ロザリア本人は恐らく気がついていないのだろうが、最近の彼女は以前に比べて感情表現が豊かになってきていた。
怒ったり笑ったりと、オスカーの前でころころと変わる表情はまさに年相応の少女のもので、今も彼の言葉を聞いて本当は嬉しいくせに、それを素直に口に出来ないだけだということを、彼女の赤らめた顔から伺い知れたのだ。
そう思った途端、オスカーはつい本音を漏らしてしまった。
「……しかしお嬢ちゃんは、本当に素直で可愛いな」
こういう子供扱いするような言葉を、恐らくロザリアはもっとも嫌っているはずだ。オスカーは自分の軽率なひと言を一瞬呪ったが、怒るかと思ったロザリアは急にためらうように身体を引いただけでなく、なんと恥ずかしそうに俯いてしまった。
予想もしていなかった彼女の行動に、さすがのオスカーも驚き怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした?」
が、ロザリアは声をかけられたことで更に赤くなりながら、窮屈そうに身体を縮めてしまう。
「な、なんでもありません」
「なんでもないことはないだろう? 俺が言ったことで何か気に障ったのなら謝るが…」
「ですから、本当に何でもないんです。ただ……」
「…ただ?」
オスカーがゆっくりと問い直すと、ロザリアは顔を上げた。そして何か言おうとして唇を小さく動かしたが、すぐにまた顔を真っ赤にして視線を逸らすと、机の上に広げていたノートや資料をバタバタと慌てて片づけ始めた。
「や、やっぱりやめておきます。別にオスカー様にお教えするほどのことではありませんから!」
「お嬢ちゃん」
ひと言呟くとオスカーはすっと手を伸ばし、ノートを持ち上げようとしていたロザリアの手をそっと押さえ込んだ。
「完璧な女王候補たるもの、言いかけたことを途中で止めるのはよくないぜ。……ほら、言ってみろよ」
オスカーにじっと見つめられ、ロザリアの動きが止まった。しばらくして、顔を真っ赤にしたまま彼女は明後日の方に顔を背けながら消え入りそうな声で囁いた。
「誰にも、おっしゃらないで下さいますか?」
「もちろん。俺とお嬢ちゃんだけの秘密にしよう」
「…あの……初めて、なんです」
「なにが?」
「わたくし、大人びていると言われたことはありましたけど……その、と、殿方に素直だとか、可愛いと言われたの、初めてなんです。ですから……あの、こ、混乱してしまって……」
そう言うとロザリアはオスカーに握られていない右手で頬を押さえ、もうこれ以上言わせるなとばかりに俯いてしまった。
そんな彼女の様子に、しばらくオスカーは呆気にとられて固まっていた。が、やがて彼の口元に優しい笑みが浮かぶ。
「そうか。…じゃあ俺は、お嬢ちゃんにとって初めての男ってことになるわけか」
「そ、そんな言い方なさらないで下さい」
「でも、そうだろう?」
「いやだわ、もう。だ、だから言いたくなかったのに……」
自分の言葉に赤くなったり、困ったように首を傾げる仕草が、普段の彼女からは想像できないほど愛らしい。年相応に、いやもしかしたらそれ以上に初々しく恥じらうロザリアを見つめ、オスカーはからかうつもりではなく、本当の気持ちを込めてぽつりと呟いた。
「……可愛いな、君は」
「もうっ! どうしてそうおからかいになるんですか? 意地が悪いですわ!」
「え? ちょっと待て。俺は意地悪で言ってるんじゃないぜ。本気で言ってるんだ」
がむしゃらにオスカーの手を振りほどき、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってしまったロザリアに向かって、オスカーは珍しく慌てたように弁解する。
「お嬢ちゃんがあまりにも…。いや……そうだな、確かに俺が悪い」
ふうっと息を吐き出し、オスカーはすっと視線を逸らした。
彼の声のトーンが急に落ちたことに気がついたロザリアは恐る恐る手を顔から離し、まだ赤いままの頬をして目の前の青年を見つめた。