あなたの存在

(2)

「ですから、いまお伺いしてきますので……」

「それにはおよばん。君の貴重な時間を、そんなつまらないことで潰させたくないからな」

「で、でも補佐官様は、たとえ誰であろうとも必ず……」

「ああ、いいんだ。俺はフリーパスだから」

それでもなお「そういう訳には参りません!」と言い募る女官長に、オスカーは軽くウィンクして見せる。そして彼女がほんの少し怯んだ隙にするりと脇を通り抜け、後ろから聞こえてくる抗議の声を無視したまま足を速めて奥の部屋へと向かった。

閉ざされた扉の前に立ち止まり、中に向かって声を掛けるために口を開きかけたが、その口元は瞬時に意地悪そうな笑みへと変化する。

扉を数回ノックし、中からの返事を待たずに扉を開く。

きっと彼女は机に向けていた顔を上げ、予定よりもずっと早く戻った恋人の姿を見て、その美しい瞳に驚きと喜びの色を浮かべるだろう。と、想像しながら勢いよく扉を開けたオスカーだったが、誰も座っていない机が視界に飛び込んできて怪訝そうに眉をひそめた。

「……ロザリア?」

思わず呟き、後ろ手に扉を閉める。

女官長はたしか「まだお部屋にいらっしゃいます」と言っていたはずだ。もうそろそろ昼休みが終わる頃だったが、彼女のことだから仕事が一段落するまで昼食もとらずに机にしがみついているのだろうと思った。ならば、一段落するまでここで待っていて、その後一緒に食事をしに行けばいいだけのこと。

もっとも、昼食の後で彼女をこの部屋に帰すことなどさらさら考えてはいないのだが。

今日の仕事は午前中でおわりだ。

午後から明日の朝までは、会えなかった二週間の埋め合わせをしてもらわなきゃな。

……などと、真面目な補佐官が聞いたら怒鳴りだすに違いないだろう不謹慎なことを考えていたのだが、それも彼女がいなければ意味がない。

「どこに行ったんだ、俺のお姫さまは?」

小さく呟いて机の方に向かって歩き出し、何気なく視線をソファに向けてオスカーはぎょっとして立ち止まった。

「ロ、ロザリア?」

ちょうど背もたれが邪魔をして部屋に入った時には見えなかった位置に、彼の姫君は横たわっていた。

枕代わりにしたクッションに顔を半分埋めるようにして、ロザリアは眠っていた。半ばうつぶせになったその身体は、彼女が呼吸をするたび、規則正しいリズムで小さく上下している。

それを見た時、病気か何かで倒れたのかと思ったオスカーの表情は一瞬にして険しくなったが、しばらくして呆れたような困ったような、それでいてどことなく嬉しそうな笑みが口元に浮かび上がった。

「……まったく、驚かせないでくれよ」

言うとオスカーは、足音を立てないように素早くソファに回り込み、ロザリアの隣にそっと腰を下ろした。そしてクッションを握りしめてすうすうと気持ちよさそうに眠る彼女の顔をじっと見つめる。

「こうしていると、まだまだお嬢ちゃんなんだよなぁ……」

ゆっくりと手を伸ばし、頬にかかるほつれ髪を丁寧に直してやると、ロザリアは小さく身じろぎをした。起こしてしまったかと慌ててオスカーは手を引っ込めたが、彼女はすぐに寝返りをうち、更にクッションを抱きかかえるようにして身体を丸めて再び寝息を立て始めた。

「……まいったな。こう本格的に眠られちまうと、返って手が出せないじゃないか」

くすっとオスカーは忍び笑いを漏らす。そして自分の肩にかけていたマントを外すと、ふわりとロザリアの上にかけてやった。

「俺はな、君に早く会いたい一心で、それこそ寝る間も惜しんで予定をこなしてわき目もふらずに帰ってきたんだぜ? なのにどうだ。肝心の君は、俺の腕じゃなく暖かな日差しに包まれて眠っちまってる」

彼女の耳元で恨みがましく呟いたが、それでもロザリアの目は開かない。

「本当に、君はどこまで俺を振り回す気なんだか……」

が、そう非難しながらも、ロザリアを見下ろしているオスカーの瞳は、柔らかく優しい光に満ちていた。

やがて彼は溜息をつくと、そっと身体をずらしてソファの背もたれに肘をつく。そしてロザリアの寝姿が全て見える位置に身体を固定し、じっと彼女を観察しながら考え込んだ。

昼間から、こんな風に無防備に彼女が眠るなど普段なら考えられないこと。よほど仕事が忙しかったのだろうか? いや、今はそれほど急を要する執務はないはずだ。

だが、夜にきちんと眠っていないのだろうことは確実。それはつまり……もしかしたら。

「俺が側にいなかったから不安で眠れなかった。・・なんて考えるのが、自惚れじゃないと嬉しいんだが」

そう言いながら、オスカーの口元に満足そうな笑みが浮かぶ。

「……まぁ今回は、その可愛らしい寝顔に免じて許してやるか」

そしてオスカーは、ゆっくりと目を閉じた。

 

窓から微かに射し込む日差しの優しさと柔らかさに、彼は久しぶりに緊張が解けるのを感じた。

ロザリアの睡眠不足を詰るオスカーだったが、そういう彼もまた、この視察の間は満足な睡眠をとらなかったのだ。

それは彼が「いついかなるときも気を抜かない」という軍人として教育を受けたからでもあったし、また守護聖となってからは更に「自分の身体は自分一人のものではない」という思いが強くなったからだった。

住み慣れ、警備が徹底している聖地ならまだしも、遠征先などいつ不測の事態が起きるかわからない。彼はいつも、どこにいてものんびりと休むわけにはいかないのだ。

けれどいつからかオスカーは、ロザリアの側にいる時はとてもくつろいでいる自分を感じていた。彼女が側にいると、何故だか安心して眠れるようになっていた。

いつも張りつめ、あるいは眠ることを恐れているのではないかとさえ思えた緊張感が、彼女のぬくもりに触れていると、柔らかく解け出していずこかへ流れていくような気がしていた。

君の側にいると安らげる。ゆっくりと眠ることができる。俺はもう、君の側でしか眠れないんだ。

沸き上がってくる眠気に素直に身を委ね、靄がかかってくる意識を手放しながら、オスカーは小さく呟いた。

「覚悟しておけよ、ロザリア。これからしばらく、簡単には寝かせてやらないからな……」

 

ロザリアはクッションを抱えたまま、息を飲んで目の前の光景をじっと見つめていた。声を出してはいけない。少しでも動いたら、多分彼はその気配で起きだしてしまう。

「……どうして、ここに、この人が……いるの??」

ようやく絞りだした彼女の声は、小さく擦れて彼女自身にしか聞こえなかった。

 

うっかりと眠ってしまったのは、ここ数日、満足に睡眠がとれなかったから。それはちょうど、オスカーがいなくなった2週間前から。

でも、幻覚を見るほど自分は疲れてはいないし、頭だって正常なはず。

それに、自分の身体にかけられたマントの暖かさと柔らかさは、夢なんかじゃない。そのマントからふわりと漂うコロンの香りは、彼が優しく抱きしめてくれるときに香るそれと同じものだ。

「……」

間違いなく目の前にいるのは本物のオスカーだ、と確信したロザリアは、一度ぎゅっと目を瞑ってドキドキする胸をそっと押さえて呼吸を調えた。そして、再びゆっくりと目を開けると、改めて目の前のオスカーの寝顔を観察する。

彼の寝顔など滅多に見ることは出来ない。せっかくの機会だからという悪戯心が、ロザリアの心に湧き上ってきたからだ。

整った顔立ちに、風がふわりと吹くたびにさらりとかかる紅い髪。綺麗だが、時に鋭すぎるように感じる目を閉じているためだろう。眠っているオスカーは、普段よりもずっと幼く、まるで少年のようにも思えた。

「こういうところを見ると、年相応に見えるのだけれど……」

彼女の寝顔を見ながらオスカーが洩らしたのと同じような台詞を、横になったままでまじまじと彼の顔を見つめながらロザリアは呟いた。

しばらく黙って観察したあと、ロザリアはオスカーを気にしながらゆっくりと身体を起こす。肩から彼のマントが落ちかかるのを押さえ、そろそろと身体を移動させてオスカーの側ににじり寄った。

そして彼のすぐ目の前に身体を寄せると、ちらりと上目遣いに彼の顔を見上げる。が、オスカーはすうすうと規則正しい呼吸を繰り返すだけで、目を覚ました様子はない。

その事に安心したロザリアはほっと小さく溜息をつくと、ソファの背もたれに寄りかかっているオスカーの身体にそっと寄り添った。

彼の胸に耳を当てると、とくとくという穏やかな心臓の音が聞える。その音の心地よさに、ロザリアはオスカーに身体を預けたまま軽く微笑んで目を閉じた。

 

……ここには貴方以外にも素敵な方は沢山いる。尊敬できる方も、楽しく時間を過ごせる方も。

なのに不思議ね。わたくしが安心して眠れるのは、貴方がいる時だけなの。

そうね……だからわたくしは、貴方でなければ駄目なのだわ。

「でもこんなことを起きている時に言ったら……きっと大変ね」

小さくそう呟くと、ロザリアは目を閉じたまま、柔らかい笑みを浮かべた。

「お帰りなさい、オスカー……」

おわり