「……すっかり誤解されちまったな」
いつの間に笑いが治まったのだろう。ロザリアの後ろに立ってルヴァ達を見送りながら、オスカーはしれっと言い放った。
そんな彼に素早く向き直ったロザリアは、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべてオスカーを上目遣いに睨む。
「……誰のせいだとお思いですの?」
「俺か? ははっ、悪かったな。いや、つい調子に乗ってしまったみたいだな」
「つい、ですってぇ!!」
オスカーの台詞に、とうとうロザリアがキレた。
「こ、こんなことが飛空都市中に広まってしまったら、いったいどうなさるおつもりですかっ!?」
「ああ、それは大変だ」
「そんな悠長なことをおっしゃってる場合ですかっ!!」
守護聖と女王候補が密かに付き合っていた、などという話は、たとえそれが事実であろうとなかろうと、おそらく平和で刺激の少ない飛空都市では格好の噂話だ。ましてやその相手がオスカーという事になれば、一週間後に周り廻ってロザリアの耳に届く頃には「ご懐妊3ヶ月目だそうで、おめでとうございます」となりかねない。
正殿の柱の影や庭園の片隅でひそひそと噂しあう人びとの姿を想像し、ロザリアはクラクラと眩暈を覚えた。
いままで完ぺきな女王候補として過ごしてきたこのわたくしが、よりにもよって風聞芳しくないオスカー様と、だなんて。
……ああ、考えただけで熱が出てきそうだわ。
だがオスカーは、そんなロザリアの杞憂などまるで考えないらしい。彼女の大声に怯んだ様子もなく、腕を組んで立ったまままるで他人の事を話すような口調で答える。
「まぁルヴァもいたことだし、あの坊や達もそこまでバカじゃないさ。それに秘密っていうのはな、自分たちだけが知ってるっていうのが楽しいものなんだぜ」
言いながら軽くウインクする余裕まである始末だ。そんなオスカーの態度に更に貧血を起こしそうになったロザリアだったが、そこに更に追い撃ちをかけるようなオスカーの言葉が続く。
「それに、たとえ噂が広まっても俺は別に構わないぜ」
「か、構わないですって?っ!」
「ああ、いっこうに構わないさ」
何を考えているの、この男はっ!?
青くなったロザリアの顔が、再び怒りで赤くなる。その変化を楽しそうに眺めていたオスカーは、更に調子づいたらしい。ロザリアの顎に手を添えてくいっと仰向かせると、怒りに燃える蒼い瞳を覗き込んだ。
「だから安心しな、お嬢ちゃん。いざとなったら俺がきちんと責任をとってやる」
「せ、責任っ!?」
「ああ。……男の責任をな」
ゴスッ!!
ものすごい音がしたかと思うと、次の瞬間、ロザリアにそろそろと顔を近づけていたオスカーが、顔をゆがめて床にうずくまった。身の危険を感じたロザリアが、反射的にオスカーの向こう脛をヒールで思い切り蹴ったのだ。
「……ぅぅっっっっ」
言葉も出ずにうめくしかないオスカーを、しばしぼう然と見下ろしていたロザリアだったが、やがてハッと我に返ると慌ててオスカーの前にしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫ですか、オスカー様っ! あ、あのっ、わたくし、つい……っ!」
まさか自分が守護聖様に乱暴を働くなど考えたこともないロザリアだったから、こうなると、もともと悪いのはオスカーの方だということは忘れてしまうらしい。
「オスカー様、オスカー様っ!」と何度も名を呼びながら、弱々しくオスカーの背中を擦っている少女の声はすっかり涙声になっている。それでもオスカーが何の反応も示さないので、おろおろと狼狽えていたロザリアの瞳にうっすらと涙が浮かんできた。
ここにきて、ようやくオスカーに(わずかだが)罪悪感が芽生えた。
――少しからかい過ぎたかな。
武術の達人でも、向こう脛は鍛えられない。だからそこを蹴られれば、いくらオスカーとはいえダメージは受ける。が、彼はそういった「痛み」を克服する術を心得ていたから、一瞬驚きと激痛でしゃがみ込みはしたものの、すぐに正気に返っていたのだ。
それでもしばらくうめいたまま動こうとしなかったのは、果たしてロザリアがどんな反応をするか見たかったから。ただそれだけである。
――俺もつくづく悪趣味だ。
ふと頭をよぎった思いに、オスカーはロザリアから顔を背けたまま苦笑いを浮かべた。と、本人は「苦笑いを浮かべただけ」のつもりだったが、「くすっ」という忍び笑いが微かに漏れてしまったらしい。
とたんに、甲斐甲斐しく背中を擦っていたロザリアの手の動きがピタリと止まる。
「しまった!」とほぞを咬んだがもう遅い。
オスカーがそろそろと顔を上げて振り返ると、ロザリアの大きな蒼い瞳に浮かんでいた懺悔の色がみるみる消え去り、涙の代わりに怒りの炎が浮かび上がってきた。
「また……騙したのですか?」
「あ、いや、痛かったのは事実なんだが……」
オスカーが珍しく動揺しながら答えると、ロザリアは口をつぐんでゆるゆると立ち上がった。沸騰しそうになる感情をどうにか押さえ込みながら、ロザリアは努めて冷静を装い、高くなりそうな声と、怒りで小刻みに震える身体をどうにか押さえて込みながら問い直した。
「わたくしが納得のいく説明をしていただけるのでしょうね? オスカー様?」
するとオスカーは「……やれやれ」と観念したように軽く息を吐きだし、先ほどの動揺など微塵も見せずに立ち上がると、少女の耳元にすっと唇を寄せて囁いた。
「お嬢ちゃんが俺を心配してくれるなんて初めてだろう? だから、その幸福な時間を少しでも長引かせたくて、な」
次の瞬間、ロザリアの理性はあっさりと弾け飛んだ。
言いたいだけの文句を吐き出したロザリアは、くるりと踵を返しドアに向かって歩き出した。
するとその背中に向かって、さんざん罵られたせいでわんわんと耳鳴りのする耳を押さえながら、オスカーが声をかけた。
「ああ、そうだ。なぁ、お嬢ちゃん」
呼ばれて振り返ったロザリアの端正な眉はひそめられ、目もつり上がっている。
「なんでしょう! まだなにかありますのっ!?」
すっかりけんか腰でにらまれたオスカーは、思わず顔を引きつらせた。喉元まで出かかった「そんな顔をしていたら美人が台なしだぜ」という軽口をどうにか堪えながら(これ以上怒鳴られたら難聴になる危険性があるので)苦笑いを浮かべつつ口を開いた。
「肝心なことを聞いていなかった。育成は、少しでいいのか? それとも……」
「たくさんか?」と続けようとしたオスカーの台詞を、ロザリアはさっと奪い取った。
「もちろんたくさんですわっ!! 当分の間オスカー様のところへうかがわなくてすむよう、たっくさんお送り下さいっ!」
「わかっ……」
オスカーが反射的に返事をすると、その答えを最後まで聞かずに、ロザリアは「それでは失礼いたします! ごきげんようっ!」っと一声部屋の中に投げつけ、バターンッッ!!と聖殿中に響くのではないかと思うくらいの音を立てて扉を閉じた。
「……まったく。本気で俺の耳を潰す気か?」
呆れながらもオスカーは、込みあげてくる笑いを隠そうとはせずに執務椅子にどっかと座った。そして机の上に足を投げ出して天井に顔を向け、目を閉じて小さく呟いた。
「まさか他の奴らの前でも、あんな態度をとるんじゃないだろうな?」
無意識に漏れた自分への問いに、オスカーは目を閉じたまま苦笑する。
「いや……そんなわけないか。そもそも彼女をからかうのは、俺くらいなものだろうし」
他の守護聖の前ではきっと、緊張した真剣な顔や、社交辞令的な笑顔を見せているくらいだろう。それでも、無表情に近かった最初の頃に比べたら大した進歩だとは思う。
だが、彼女のそれだけではない表情を知っているのは、多分この飛空都市ではオスカーただ一人だ。
完ぺきな女王候補という仮面に疲れて、湖でひとり泣いていたのを見たのも。
オスカーが他の女性と話し込んでいるところを見つけた途端、拗ねたような瞳をしていたのも。
眉をひそめ、顔を真っ赤にしてダダをこねるように怒る仕草も。
それを知っているのは、きっと俺だけなのだろう。
しばらくオスカーは目を閉じて考え込んでいた。やがて肩を竦めると目を開け、天井を見上げて自嘲するように笑った。
ああ、そうか。これは――独占欲だ。
彼女は女王候補。だから誰に対しても、打ち解けなければいけない。誰か一人が彼女の笑顔を独占することは出来ない。
皆に向けられる彼女の笑顔。それは仕方のない事だし、自分が止めさせることなど出来ないものだ。
他の奴に君の笑顔を見せたくない、なんて陳腐な台詞を言えるわけがない。
だから――
彼女を見るたびについからかってしまう自分の行動に、ようやく合点がいったオスカーは苦笑を浮かべて呟いた。
「……まいったぜ。これじゃあお嬢ちゃんのことを、子供扱い出来ないじゃないか」
前髪を掻き上げつつ小さく息を吐きだしたオスカーは、目を細めて薄く笑った。
「まぁ……いいさ。いくらでも他の奴の前で笑うといい。はしゃいで笑って、転げ回って笑うがいいぜ」
――けれど。
泣いたり弱音を吐いたり。怒ったり不機嫌になったり。
そういう感情は、他の奴には見せないでくれ。
いや、絶対に見せてなどやらない。
「それは俺だけの特権だ。ずっと前から笑顔だけではない君を見てきた――俺だけのものだからな」
我ながら嫌な奴だ、と思いながらオスカーは、足を机の上から降ろし、机の上にある書類に手を伸ばした。
そして今晩、育成が済んだら書き込む育成進行表に、早々とペンで予定を書き込んだ。
「フェリシアの育成――少し」と。