夢見ていよう

(1)

春の日差しって、こんなに暖かくて優しかったかしら……。

 

頭に浮かんだその言葉に、アンジェリークはふふっと軽い笑みを浮かべた。

ここは飛空都市で、女王陛下の力によって守られたこの空間は、春だろうと冬だろうと常に穏やかな気候なのだということを思い出したからだ。

アンジェリークは笑みを浮かべたまま、大きな縁のある白い帽子を風に飛ばされないよう手でしっかりと押さえて空を見上げる。

どこまでも青い空。ゆっくりと流れる雲はまるで綿菓子のようだ。帽子に留められた白いリボンの裾が風に靡くのを押さえようとしたとき、遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえ、彼女は顔をそちらに向けた。

 

「ごめん。待ったかい?」

目の前で止まり、肩で息をしながら伺うような視線を向けてくる青年を見上げたアンジェリークは、嬉しそうな笑みを浮かべたまま軽く首を振ってみせた。

「いいえ。わたしもいま来たばかりですから」

そう言いながらポシェットの中に手を入れてピンク色の小さなレースで縁取ったハンカチを取りだすと、青年の額にそっと手を伸ばした。

「ランディ様、すごい汗」

一瞬にしてランディの顔が赤くなったのは、走ってきた所為で暑くなったためだけではないだろう。

「ご、ごめんっ!」

ランディが慌てて身を引くと、アンジェリークは訳がわからずにきょとんとした表情を浮かべた。

「ランディ様?」

アンジェリークのその表情を見て、ランディは更に慌てる。

彼女には何も特別な意図はなかったのだろう。ただ、ランディが汗まみれだったから拭いてあげようと思っただけだった。

なのに彼女の身体が側に近づいてきて、不意に柔らかい香りが漂ってきたのを勝手に意識してしまった。

「あ、い、いやあの! せ、せっかく綺麗なハンカチなのに、汚しちゃったら悪いなと思って」

こんな時、口八丁手八丁な先輩諸兄ならば、もっと良い言葉を彼女にかけてあげるのだろうと思う。

だがそんなランディの気まずさに、彼女は気が付かなかったらしい。すぐに困ったような笑みを彼に返してくれた。

「でも、ハンカチは使うために持っているものですよ。使えば汚れるのは当たり前です」

それに、とアンジェリークはここで言葉を切ると僅かに顔を伏せ、もじもじと両手の指を絡ませながらぽつりと呟いた。

「他の人だったら嫌だけど、ランディ様の汗は……全然汚くなんかないですから」

言われて、再び自分の顔が熱をもってきたのがわかったランディは、ぽりぽりと軽く頬を掻いて誤魔化すように視線を背けた。

ほんのりと頬をピンク色に染めたアンジェリークがあまりにも可愛らしくて、廻りに人が歩いているとわかっているのに、思わずぎゅっと抱きしめたい衝動にかられたからだ。

「こ、こういう時って、なんて答えればいいんだろう。えっと……ありがとうって言うべきなのかな」

誤魔化すために口をついた言葉がこれだなんて、とランディは自分が情けなくなった。「汗が汚くない、と言ってくれてありがとう」なんて、あまりにも間抜けな返答だ。

だがアンジェリークは、それを「汗を拭いてくれてありがとう」という意味に受け取ったらしい。まだ照れ臭そうにそっぽを向くランディを見上げて、にこっと笑った。

 

ぽかぽかと暖かい太陽の光を浴びながら、二人並んでベンチに腰掛ける。栓を開けるとシュワッと音を立てるコーラを一口煽ると、ランディはアンジェリークの方へ視線を向けた。

「アンジェ、あのさ」

「……はい?」

アンジェリークの返事が一呼吸遅れたのは、ちょうどホットドックの端っこをぱくんと口に含んだからだった。

口元を押さえてこちらを向く少女を見つめ、ランディは申し訳なさそうに眉をひそめる。

「ほんとにこんなランチでいいのかい? ケーキがおいしいって言ってたカフェだってあるし、賑やかなのが嫌だったら守護聖だけのカフェもあったし」

公園のベンチでホットドックなんて、今日のデートに相応しいとは思えない。しかしアンジェリークは、こくんとホットドックのかけらを飲み込むと軽く首を振った。

「いいんです。今日はランディ様と、ここのホットドックが食べたかったんです。あ、でも、ランディ様は他のものがよかったですか?」

「いや、俺は全然かまわないけど。ここのホットドックは美味いから好きだしね」

ランディが素直に答えると、アンジェリークは「よかったぁ」と呟き、ホッとした表情を浮かべて正面に向き直った。

「ランディ様、覚えてますか?」

目の前で吹き上がる噴水の前で子供たちがはしゃいでいる。暖かい春の風はその子供たちの間を吹き抜け、ベンチに座っているランディとアンジェリークのところに、微かな水の香りを運んできてくれた。

アンジェリークはホットドックを軽く紙に包み直し、ベンチに敷いたランディの白いハンカチの上に置いた。そして膝の上にある帽子の縁をそっと撫でながら、まるで遠い過去のことを懐しむように目を細める。

「ランディ様が初めてわたしにご馳走してくれたのが、このホットドックだったの。ちょうど今とおんなじ。噴水の前で子供たちが遊び回ってて。二人で並んでベンチに腰掛けて、大きなホットドックを口に頬張って。それが、とっても、とってもおいしかったんです」

「アンジェ……」

アンジェリークは何を思い出したのか、不意に身体を軽く前に倒してくすくすと笑った。

「そういえば、あの時もおっしゃいましたよね?『こんなランチでごめん。あっちのカフェとかに入ればよかったかな?』って」

「そ、そうだったっけ?」

すっかり記憶から抜け落ちていたところを指摘され、ランディは目を白黒させた。するとアンジェリークはすねたように軽く頬を膨らませた。

「もぉ?、覚えてらっしゃらないんですか? わたしとの初めてのデートなんて、ランディ様にとってはその程度の事だったんですね!」

ぷいっとそっぽを向いてしまったアンジェリークの態度に驚き、ランディは反射的にぺこんと頭を下げた。

「ご、ごめん!」

しばらくしてアンジェリークの頬がみるみる緩んでくる。と、同時に彼女は軽く吹きだした。

「う・そ。怒ってなんかいません。だから顔を上げて」

「……アンジェ」

「はい?」

下を向いたまま問いかけられ、反射的に返事をした。するとランディは右腕を伸ばしてぐっと彼女を抱き寄せ、彼女の頭に軽く左手の拳を押し付けた。

「よくも騙したなぁ!」

「きゃっ! い、痛いですってばぁ?! ご、ごめんなさ?い!!」

 

不意に風が吹いた。その風は、アンジェリークの膝に乗っていた帽子をふわりと天に運ぶ。

ベンチではしゃぐ二人の姿を、公園を通りすぎる人々は微笑ましそうに見ていた。

日の曜日の昼下がり。戯れあう二人は、きっと誰の目から見ても幸せそうなカップルに見えたことだろう。

ただ、二人だけは知っていた。

おそらくこれが、こんな風に無邪気に過ごせる最後の時間になるのだろうと。