大丈夫

 

「――また花ちゃんと二人きりで遅くまで仕事してたそうだな。お前ばっかりずるいぞ、文若」

曹孟徳の言いがかりとも言える文句に、いい加減耐性がついてきた荀文若は、常よりも更に表情を消したまま口を開いた。

「お言葉ですが、私は丞相の命により彼女を側に置いただけです。なにもわからぬ赤子同然だった者を、己の仕事の時間を削り、どうにかこうにか人並みの読み書きや作法が出来るまでにした労力と忍耐を顧みれば、羨ましがられることなどないはずですが」

すると孟徳はあからさまに口を尖らせ、筆を手に取ると机の上に広げた竹簡にぐるぐると円を描き始めた。

「でもなぁ、最近のお前達、やけに仲が良くないか? こう、以前とは互いの醸し出す雰囲気が違うって言うか…」

「丞相……落書きはおやめください」

「ほんの数日前まで、花ちゃんはお前のこと怖がってたじゃないか。なのにこの頃は、何がなくても文若さんに訊いてみますとか、文若さんと一緒ならって、お前にばっかり頼るし……」

「それは印を頂いた後、各省に廻す通達の元本となる大事な竹簡です。そのように墨で汚されては困るのですが」

「お前もそうだよ。この間まで花ちゃんのこと邪魔だと言ってたくせに、いまはやたらかまうし、俺にもなかなか会わせようとしないで独り占めしてるじゃないか。いったいどういう心境の変化だ?」

「丞相っ!」

痺れを切らした文若は、するどく一喝して孟徳の前から竹簡を取り上げた。そして墨で汚れた文面にため息をついてからくるくると巻き上げ、最後の部分だけを改めて孟徳の前に戻して指を指した。

「よろしいですか、ここです! こちらに印のみを頂きたいっ!」

「わかったわかった。そんなに怒鳴らなくてもわかってるよ、まったく……」

呆れたように肩をすくめる孟徳の様子に、文若はひくりと眉尻を震わせたがなにも言わず、孟徳が印を押すのを確認すると同時に素早く竹簡を手元に引き取った。

肩を怒らせている文若の仏頂面をまじまじと見上げ、やがて孟徳は頬杖をつくと深いため息をついた。

「あーあ。俺が一人寂しく仕事をしている間、部下は可愛い女の子と差し向かいで楽しい時間を過ごしてるんだなぁ。理不尽だよなぁ」

「私も彼女も、丞相と同じく仕事をしているだけです。なんら変わるところはありませんし、疾しいことなどなにひとつありません」

きっぱりと言い切った文若は、選り分けた竹簡を孟徳の机の上に丁寧に積み上げ、一歩後ろに下がると深々と頭を下げた。

「残りの分に関しては、数刻後に使いの者を取りに伺わせます。それまでに、すべてお目通しいただきますよう」

「はいはいっと……あ、そうだ。その使い、花ちゃんにしてくれよ!」

にこにこと笑う孟徳に目を細めた文若は、すっときびすを返しがてら良く通る声で答えた。

「彼女が持つには数が多すぎますので、他に力のある者といたします。それでは」

「こんの冷血漢! むっつり助平! ケチ!」と子供の悪口のように騒ぎ立てる孟徳をそのままに、文若は素知らぬ顔で部屋を後にした。

 

執務室に戻って扉を開けたが、それを迎えてくれる花の声は聞こえなかった。怪訝に思った文若が部屋に入ってみると、彼女は部屋の隅の卓に突っ伏して目を閉じている。

「花? どうかしたのか?」

不安になって文若は駆け寄ったが、彼女に近づいた途端に足を止め、それからほっとしたように肩の力を抜いた。

「眠っているのか……呆れた奴だ」

苦笑してささやいた文若だったが、その目は柔らかく微笑んでいる。ここ数日、彼女は自分に付き合って遅くまで仕事を手伝ってくれていた。そして今日、ようやく一段落したところで、ほっと気が抜けたのだろう。

そう思えば無理に起こすのも忍びなくて、文若はゆっくりと上着を脱ぐと花を起こさないよう、小さな背にそっと上着をかけてやった。

「……お前は本当に、どんなところでもすぐに眠れるのだな」

数日前まで共に過去の旅をしていた時のことを思い出しつつ、呆れたように笑って彼女から手を離そうとした文若だったが、その途端に花が小さくうめいて身体を震わせ、眉間にしわを寄せると「やだ……おかあさ…ん……」と声を漏らした。そうして閉じた瞳から、涙が一筋すっと流れるのを見た文若は、花の背に触れたまま身体を固くしてしまった。

それから花はまた眠りに落ちたらしく、すうすうと規則正しい寝息を漏らし始めた。その様子に文若は詰めていた呼吸を取り戻し、深く息を吐くと花の背から手を離した。

花の向かいの席に腰を下ろし、文若は花の茶色がかった髪をじっと見つめていた。

どれだけ順応しようとも、いつも明るく笑っていようとも、彼女は突然親元から引き離された迷い子だ。表面には微塵も見せないが、胸の内では寂しくて悲しくて、いつも泣いているのかもしれない。そんな事実を改めて突き付けられたようで、文若はひどく胸が痛んだ。

なにもしてやれない己の無力さが、もどかしくてたまらなかった。

「……相変わらず、私はなにもできないのか。陛下をお救いすることも、お前をなぐさめることも……なにも……」

彼女の悲しみをなくすことは出来なくとも、少しでも軽くしてやることはできないだろうか、と頭を抱えたところで、不意に花が肩を震わせたかと思うとゆっくり身体を起こした。そして欠伸をひとつしてから、目の前に文若が座っていることに気づいて目を大きく見開いた。

「え……ぶ、文若さんっ! いつ戻って……え、あれ? やだ、私ったらいつの間に寝ちゃってたんだろ?」

「ご、ごめんなさいっ!」と言いながら顔を赤らめ頭を下げる花に、文若は微苦笑を浮かべて立ち上がった。

「もういい。それよりも……せっかくだ、茶でも飲んで一息入れよう」

「え? で、でも私、いままで寝ちゃってて、また休憩とかそれって……」

「かまわん。丞相から書簡が戻らねば、どうせ仕事にならんからな。ならば茶でも飲んでしっかりと目を覚まし、続きをした方がよほど効率が良い」

文若の言葉に、花はまばたきを繰り返した。そしてはにかんだように微笑んで、大きくうなずいた。

「はいっ!」

駆け寄ってくる花の笑顔は、いつもと同じで曇りはなかった。そのことに僅かに安堵している文若の隣に並んだ花は、彼の手元に目を向け瞳を輝かせた。

「わぁ! これ、月餅ですよね」

「ああ。厨房の前を通ったら、ちょうど蒸し上がったというので少々分けてもらった。……お前が気に入っていたからな」

ぽそりと付け加えて花をちらと見た文若は、ぎょっとして思わず動きを止めた。彼女が今にも泣きそうな顔で見上げてきていたからだ。

「ど、どうした?」

先ほどの涙を思い出した文若が恐る恐る問うと、花は文若の腕をがしっと掴み、びくりと震える文若に詰め寄った。

「私、さっき夢を見たんです。すごく美味しそうな月餅があって食べようとしたら、急にお母さんが帰ってきて目の前で全部食べちゃったんです。やめてって言ってるのに全然聞いてくれなくて……すごく悲しくて、悔しくて……」

「……なに?」

「すると、先ほどのうわ言と涙は……」と文若がぼそりと続けたが、花には聞こえなかったらしい。まだ温かい月餅に嬉しげな笑みを浮かべ、文若を見上げて花は笑顔を浮かべた。

「文若さんってやっぱりすごいですね。私のことなんでもわかっちゃうんですから!」

「あ……ああ」

ぎこちなくうなずいてから文若は、月餅の乗った皿を彼女に手渡して卓に運ぶよう指示をした。そして嬉々として皿を運ぶ花の背を見送ってからため息をつき、苦笑いを浮かべつつ茶壺に手を伸ばした。

「そうだった……お前の適応力はたいしたものだというのを忘れていたな」

おわり