Innocent World

(3)

「……私、ちゃんと笑えていたかしら」

肩から落ちかけたショールを直し、アンジェリークは小さくため息をついて空を見上げた。 もうこの空にオーロラが出ることはないだろうけれど、沢山の星が美しく輝く夜空は、アンジェリークに平和の素晴らしさを教えてくれていた。

「だからこれ以上、我がままや贅沢を言ってはいけないのよ」と、アンジェリークは心のうちでささやきながら、ニクスが植えた種がようやく芽吹きだした庭を越えて、ゆっくりと歩いていた。

夕食会はいつも通り、皆が揃った楽しいものだった。というより、皆が「楽しく過ごそう」と努力していた、と言うべきかもしれない。

暖かい料理を食べながら他愛ない話をし、「今夜のオレはひと味違うぜ?」と張り切るレインが作ったデザートのアップルパイをつつきながら(そしてニクスに「レイン君は、まるでアップルパイを極めようとしているようですね」と、常にアップルパイを作ることをちくりと皮肉られながら)、ウォードンが少しずつ復興してきているとか、セレスティザムの銀の大樹が、近々アルカディアの人々に一般公開されるらしいとか、明るい未来を感じさせる話題で盛り上がった後、それぞれが笑顔のまま自室に退いた。

しかし独りになったアンジェリークはベッドに潜り込んでもまるで眠れず、しばらく寝返りを打っていたのだが、とうとう諦めて起き出すと、ショールを羽織ってこっそりと部屋を抜け出した。そうしていま、肌寒い夜風が時折吹く庭園を、肩を落として歩き回っているのだった。

女王の卵としての使命を終え、エルヴィンの姿を模していた宇宙意志からの「女王になって宇宙を見守って欲しい」という願いが、どれだけ大切なものだったかはわかっている。

けれどアンジェリークは、ジェイドと共にアルカディアで「唯人」として生きることを選んだ。それは彼女にとって、何物にも代え難いことだったからだ。そしてその選択をしたことを、アンジェリークはいまも後悔していない。だから昼間ジェイドが告げた言葉は、最初は確かにショックだった。「ようやく、なんの障害もなく一緒にいられるようになったのに……どうして?」と、ただ悲しいだけだった。

しかし彼の話を聞いているうちに、彼が本当にアンジェリークのことを大切に想っていてくれて、だからこそ「今度は女王の卵じゃない、アンジェリークっていう一人の女の子としての夢をかなえて欲しいんだよ」と言ってくれたのだとわかり、じわじわと嬉しさが込み上げてきた。

もう誰に気を使うことも、なにを案じることもなくいられるからこそ、自由に自分の意志で未来を切り開いていく。その大切さを、ジェイドはアンジェリークに「医師になるという夢をかなえる」ことで、気がつかせようとしてくれているのだろう。

その心遣いがわかったからこそ、アンジェリークは笑うことができた。ジェイドの言葉に微笑んで「……わかりました」とうなずくことができたのだ。

けれどそのことと、しばらく離ればなれになることの寂しさはまた別問題で、自室で独りになった途端、それが現実味をもってアンジェリークに迫ってきた。

暗い庭園の一角にあるベンチにたどり着いたアンジェリークは、ゆっくりとそこに腰を降ろすと、身体をぶるりと震わせてため息をついた。

「……甘ったれのアンジェリーク。別にもう一生会えないわけじゃないし、学校が長期休暇に入ったら会いに行くよって、ジェイドさんは言ってくれたじゃないの。なのに……寂しい、なんて」

学園に戻れば、サリーやハンナとの学園生活を取り戻せる。彼女らと、以前と同じように楽しく過ごしながら勉強をして、夏休みや冬休みになったらジェイドに会える。そうして休暇中ずっと、彼と一緒にいられるのだ。

こんな理想的で素晴らしい未来の、いったいどこに不満があるの?と、アンジェリークは自分に問いかけた。

「でも……仕方がないじゃない」

つぶやいてくすんと鼻を啜ったのは、夜風に身体が冷えたせいか、あるいは鼻の奥がつんとした所為なのか。アンジェリークはしばらく地面を見おろしていたが、やがて深いため息をつくと、ゆっくり空を見上げた。

「アンジェ!」

いきなり後ろから聞こえた声にアンジェリークはびくりと肩を震わせたかと思うと、ドキドキと高鳴る胸を押さえながら振り返った。

「……ジェイド、さん?」

アンジェリークが絞り出すように答えるとジェイドは安堵したため息をつき、目を細めてゆっくりと彼女の方へ歩み寄ってきた。

「……よかった。君の部屋へ行ったら誰もいなくて……何かあったんじゃないかって、すごく心配したよ」

「あ……ご、ごめんなさい」

微かに頬を染めて謝るアンジェリークの隣に腰掛けたジェイドは、緊張した面持ちの彼女に、優しく微笑みかけた。

「ううん、無事だったならいいんだ。でも、こんな時間に夜のお散歩かい?」

「ちょっと、眠れなくて……」

ぽつりとつぶやいてからアンジェリークはゆっくりと顔を上げ、ジェイドの顔を覗き込んだ。

「でも、あの……ジェイドさんこそこんな時間に、あの、私の部屋に、って……」

アンジェリークの指摘に今度はジェイドが困惑した表情を浮かべた。だがすぐに微苦笑を浮かべると、アンジェリークを真っ直ぐに見つめた。

「実をいうと……俺も、休めなかったんだ。いつもは君の笑顔や声を思い出すとすぐに休めるのに、今夜はそれが出来なかった。再生されるのは、俺が旅に出るっていった時の、君の驚いた表情ばかりで……」

「ジェイドさん……」

アンジェリークが目を細めるとジェイドはゆっくり視線を外し、澄み渡る夜空に輝く星を見上げた。

「君のために、俺が出来ることはなんだろうって、ずっと考えていた。普通の女の子に戻ったけれど、俺にとってはいつまでも特別な君に、俺はなにをしてあげられるんだろうって」

そう言って視線を落とすジェイドの横顔に、アンジェリークはふるふると首を振ってみせた。

「私……私は、特別な事なんて望んでいません。ただ、大切な人と一緒にいたくて……ジェイドさんとずっと一緒にいられたらって……」

するとジェイドはしばらく押し黙り、なにか考えるように地面の一点をじっと見つめていたが、やがて顔を上げると、アンジェリークを見ながらにこりと笑った。

「ねぇアンジェ。俺に少しだけ時間をくれないかな?」