Innocent World

(1)

「アンジェ……なにしてるんだい?」

かけられた声と同時に、視界に大きな影が降りたのを目にしたアンジェリークは、ゆっくりと顔を上げてにこりと微笑んだ。

「荷物を片付けていたら見つけたので……ちょっと、息抜きです」

そう言って再び手元の書物に視線を落とすアンジェリークを見ながら、ジェイドは彼女の隣にすとんと腰を降ろした。そしてアンジェリークがめくるページをちらと覗くと、わずかに目を見開いた。

「それ……医学書だよね? そんな難しい本で、息抜きになるの?」

するとアンジェリークは口元に笑みを浮かべ、ジェイドを見返した。

「医学書と言っても、これは入門書ですから。本当に基本的なことしか載っていないので、そんなに難しくないですよ」

言いながら本を差し出すようにしてジェイドに身を寄せながら、アンジェリ?クは載っている図表や文章をいちいち解説し始めた。

それをジェイドは黙って聞き、時々相づちを打ったりうなずいたりしながら、一生懸命話すアンジェリークの様子に目を細めていた。だがしばらくしてアンジェリークははっと我に返ると、ジェイドをまじまじと見ながら頬を染めた。

「ご、ごめんなさい。あの、こんなことジェイドさんだったら、もう知ってますよね?」

「そうだね、知識としてのプログラムはされているよ」

ジェイドがこくりとうなずいたので、アンジェリークは「ですよ……ね」と小さくつぶやき、恥ずかしそうに視線を落とした。

「いつもジェイドさんには教えてもらったり守ってもらうばっかりで、だから私も教えてあげられることがあるって思ったら、嬉しくってつい……うるさかったですよね? ごめんなさい」

するとジェイドはふわりと笑いながら首を振ると、アンジェリークの長い髪に手を伸ばした。

「どうして謝るんだい? 俺はすごく嬉しいのに」

「……え?」

「確かにいま話してくれたことは、知識として全部知っていた。でも、それが君の声と『俺のために』って気持ちとが混ざり合うことで、まったく新しい情報としてインプットされたんだ。無機質なプログラムじゃなく、ぬくもりのある知識に書き換わったんだよ」

アンジェリークの髪の一房を指で梳きながら、ジェイドは笑みを浮かべた。

「君が俺にくれる記憶と時間が、少しずつ増えるたびに、俺は人間に近づいているって……そんな、幸せな錯覚さえ感じるんだ」

すると、それまで恥ずかしそうに目を伏せていたアンジェリークが、ジェイドの言葉に反応して顔をあげた。

「ジェイドさん! もうそういうことは言わないって、約束したはずですよ!」

そして彼を軽く睨むと口をとがらせ、驚くジェイドに精いっぱい怖い顔をして見せた。

「人間だとかアーティファクトだとか、そんなの……そんなことは、私がジェイドさんのこと……す、好きだってことと……全然、関係ないです……」

勢い込んで話し始めたものの、自分の気持を告げるのはやはり恥ずかしかったらしく、アンジェリークはだんだん頬を赤らめたかと思うと、最後の方はこっそりささやくような声音になってしまっていた。

そんなアンジェリークの頭に、ジェイドの大きな手がふわりと乗せられた。その温かい感触にアンジェリークが上目遣いに彼を見上げると、ジェイドは笑みを浮かべていた。

「謝らなければいけないのは、俺の方だね。……ごめん、もう二度と言わないよ」

そう言ってアンジェリークの華奢な身体を、まるで壊れ物に触れるように抱き寄せたジェイドは、おとなしく身を委ねてくる彼女の髪に頬を寄せた。

「君が俺を想ってくれるのと同じくらい……いや、それ以上に、俺がアンジェを大好きなのは、俺が人間じゃないこととは関係ないんだから……」

「……ジェイドさん」

嬉しげに彼の名を呼ぶアンジェリークを、ジェイドはしばらく無言で抱きしめていた。だが、やがて彼女の身体をそっと押し戻すと、いつになく真剣な表情を浮かべて、アンジェリークの目をじっと見た。

「ジェイド……さん?」

不安げにアンジェリークがつぶやくと、ジェイドは我に返ったように表情を緩め、彼女を安心させるように微かに笑った。

「アンジェ……君に、話しておきたいことがあるんだけど」

「……はい?」

小さく首をかしげて返事をする仕草が可愛らしくて、ジェイドは安心したように微笑んだ。

「とっても大事なことなんだ……これからの俺達のことなんだけど……」

ジェイドがそう言うと、アンジェリークは目をしばたたせた。しかし次にジェイドがつげた言葉に、彼女は大きく目を見開いた。

「おや、レイン君。買い物に出かけるのではなかったのですか? ずいぶんと早いお帰りですね」

「……まだ行ってない」

憮然とした表情で腕を組み、玄関脇の壁に背を預けていたレインは、ニクスの言葉にくいっと顎をしゃくった。

「エントランスであんなことされてたら、おちおち通り抜けられないんだよ」

言われて出窓の向こうに視線を向けたニクスは、エントランスのすぐ側に生えている樹の根元で、仲むつまじく寄り添うアンジェリークとジェイドの様子に柔らかい笑みを浮かべた。

「まぁ……確かに、邪魔をするのはいささか気が引ける光景ではありますね」

「……だろ?」

眉をひそめたレインは頭を掻くと、肩をすくめてため息をついた。

「仲良くするのが悪いって言ってるんじゃない。でも、もうちょっと他人の視線も気にしてだな……」

「せめて、失恋して傷心中のレイン君の見えないところで……と、いうことですか?」

ニクスの言葉にレインはじろりと彼を睨んだが、それ以上突っかかったりせずに肩をすくめた。

「相手があんただったら、どんなことをしてでもやめさせるけどな」

言われたニクスは大げさに肩をすくめたが、レインを見返す瞳には悪びれた色はまったくなく、むしろ楽しそうでさえあった。

「おやおや。私はレイン君の中では、ずいぶんな評価をいただいているんですね」

「これでも、かなり甘いほうだぜ?」

片目だけをすがめて口元に皮肉な笑みを浮かべたレインは、やがて壁から背を離すと組んでいた手をズボンのポケットに入れ、ゆっくりと歩き出した。

「まだ当分出られそうにないから、部屋で論文の続きでもしてる。玄関が平和になったら呼んでくれ」

「私に見張りをしていろ、と?」

階段を上がるレインの方を振り返らず、ニクスは笑みを浮かべたまま訊ねた。するとレインは途中で立ち止まり、手すりを掴んだまま上体だけ振り返った。

「オレをからかう時間があるんだ。あんた、ヒマなんだろ?」

そう言い残して、再び階段を上がっていくレインの背中を見送ったニクスは、そのまま手すりに寄りかかると、ゆっくり両の手の指をからめながら苦笑した。

「暇なわけではなく、私もレイン君とご同輩……というだけですよ」