「アンジェ、どこに行くんだい?」
背後からかけられた声に驚いたアンジェリークは「きゃあ!」と悲鳴を上げると、びくりと肩を震わせた。あろうことか、一番内緒にしておきたかった人に、寄りによって最初に見つかってしまったからだ。
すると声をかけたジェイドは不安げな表情を浮かべ、アンジェリークのほうへ足早に歩み寄った。
「どうしたの? なにかあったのかい?」
「いっ、いいえ! な、なんでもないです!」
思わず漏れた自身の声にまた驚いたのか、アンジェリークは顔を真っ赤に染めると、顔を覗き込んでくるジェイドに何度も手を振ってみせた。
「あの、急に声をかけられたから、ちょっと驚いてしまって…」
「え。あ、ごめん。俺が驚かせてしまったんだね」
「そんな、ジェイドさんのせいじゃないですよ。わたしがぼんやりしていただけですから」
軽く首を傾げたジェイドは、一瞬怪訝そうに眉をひそめたが、アンジェリークが真剣な表情で首を振ってから浮かべた笑顔に、すぐに口元をきゅっと持ち上げて微笑み返した。
「そう、よかった。でもアンジェ、あまり考え事をしながら歩くと危ないよ。独りで考えていないで、どうしても解決できない問題があるのなら、いつでも俺に相談してほしいな」
「あ、ありがとうございます」
ジェイドの優しい言葉に、アンジェリークは嬉しそうに頬を染めた。だが今回の考え事というか企み事は、特にジェイドにだけは知られたくないものだったので、彼が
「それで、君の心をいっぱいにしている考え事って、なんなんだい?」と問われたとたん、無意識に数歩後ろに下がってから、勢いよく頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。ジェイドさんには、まだ言えないんです!」
「アンジェ?」
ジェイドの表情が曇るのを見るのがいたたまれなくて、アンジェリークは彼から視線を逸らしたまま、くるりときびすを返した。そして「あの、でも時がきたら、必ずお話ししますから」と早口で告げ、そそくさとその場を立ち去ってしまった。
「彼女のことなら心配はいりませんよ。先ほど、レインくんと連れだって、屋敷から出て行くのを見かけましたから」
「そう、レインが……それなら、安心だね」
ニクスの言葉に小さく言葉を漏らしたジェイドだったが、言葉とは裏腹に大きな肩を落としたその様子は、本当に安堵しているようには見えなかった。
「案ずるな、ジェイド。アンジェリークはウォードンに行くのだと所在も明らかにしていったのだし、レインもついている。よほどのことがない限り、すぐに戻ってくるだろう」
ヒュウガがそう言いながらティーカップに手を伸ばす隣で、ニクスも軽くうなずき穏やかな笑みを浮かべた。
「おそらく、ベルナールのところへ顔を見せに行ったのでしょう。しばらく彼に会っていないと、言っていましたから」
「……うん、そうかもしれないね」
ニクスの言葉にうなずいたジェイドは顔を上げ、目の前の二人を交互に見ながらにこりと笑った。
「それじゃあ二人が帰ってきたら、すぐにディナーを食べられるように、いまから準備をしておくことにするよ。二人とも、なにかリクエストはあるかい?」
言いながら立ち上がるジェイドをちらと見上げたヒュウガは、小さく首を振って口元に笑みを浮かべた。
「いや。おまえが、彼女に食べさせたいメニューでかまわん」
ヒュウガの言葉に同調するように、紅茶を一口飲んだニクスも、顔を上げて目を細めた。
「私もなんでも結構です。あなたの料理は、どれにするか選べないほど、素晴らしいものばかりですからね」
「うん、わかった」
大げさなニクスの賞賛にも照れた様子もなく、ジェイドは屈託のない笑みを浮かべ、サルーンをあとにした。
残されたニクスとヒュウガは、しばらく黙って紅茶を飲んでいたが、やがてどちらからともなく微かな笑みを浮かべ、ちらりとお互いの顔に視線を向けた。
「妬きもちを妬くのは、レインくんの専売特許だと思っていたんですけれどね」
「……まぁ、ジェイドの気持ちもわからなくはないが」
ぽつりと漏らしたヒュウガの言葉に、ニクスは驚いて彼を見つめた。するとヒュウガは、こほんと小さく咳払いをすると、ニクスの視線を避けるように顔を背け、ソファに座り直した。
「ジェイドさん、ただいま!」
アンジェリークの明るい声がキッチンの入り口から響いてきたところで、ジェイドは軽く肩を震わせて振り返った。そんな彼の態度を見たことがなかったアンジェリークは、それまで浮かべていた笑顔を引っ込めると、怪訝そうに首を傾げた。
「ジェイド、さん?」
「あ、ああ、ごめん。ちょっと、考え事をしていたんだ」
そう言ってにこりと笑ったジェイドは、手にしていた蓋を、ゆっくりと鍋の上に戻した。
「お帰り、アンジェ。君たちが帰ってくる前に出来上がるはずだったんだけど、すこし計算が狂ったみたいだ。そうだね……あと4分23秒ほど待っててくれるかい?」
「それはかまいませんけど。でも、珍しいですね。ジェイドさんは、いつもぴったり時間に合わせてお料理を作るのに」
アンジェリークはそう言うと、両腕を後ろに回したままジェイドの方へ歩み寄った。
彼女の言葉に、ジェイドもまた困ったように微笑んだ。料理が計算通りに行かなかったことも初めてだったし、アンジェリークがキッチンにたどり着くまで、彼女が帰ってきていたことにも気がつかなかったのも、これが初めての経験だ。
朝、アンジェに会ってから、なんだかおかしいみたいだ。俺は……やっぱり壊れてしまったのかな。
アンジェリークには聞かれないように小さくため息をつきながら、ジェイドがテーブルの上に置いていたナイフに手を伸ばそうとすると、その行動を遮るようにアンジェリークが彼の前にするりと移動した。そして、ジェイドの顔を見上げるようにして、にこりと微笑んだ。
「はい。ジェイドさんにお誕生日プレゼントです」
「え?」
後ろに隠していた両手を戻したアンジェリークは、手にしていたものを反射的に出したジェイドの手の上に乗せると、小さく首を傾げた。
「いつもわたしを幸せな気持ちにしてくれるから、そのお礼の意味も込めて」
「……アンジェ」
「本当は、もっとちゃんとしたプレゼントにしたかったんですけど、ジェイドさん、なにが欲しいのか教えてくれないし」
そう言って、少しだけ拗ねたように唇を尖らせたアンジェリークをぼうっと見ていたジェイドは、やがてゆっくりと自分の手の上に乗せられたものに視線を移して、少し目を見開いた。
「これって……幸福の葉、だよね?」
ジェイドの言葉に、アンジェリークは機嫌を直したのか、嬉しそうに目を細めると小さくうなずいた。
「わぁ、覚えていてくれたんですね。はい、ハンナに頼まれて取りに行った、幸せを運ぶっていう葉っぱです」
「もちろん、忘れたりしないよ。君と過ごした時間は、どんな些細なことだってきちんと覚えてる」
ジェイドは言いながら、彼の手の平の上にあるために、更に小さく見える四つ葉の葉を、愛おしそうに目を細めて見つめた。
「これを……取りに行ってくれてたんだ」
「はい、レインに付き合ってもらって」
「そうだったんだ……」
つぶやいたジェイドはゆっくりと顔を上げ、改めてアンジェリークを見つめた。
「ありがとう、アンジェ。俺は、こんな素敵なプレゼントをもらったのは初めてだよ」
その言葉を聞いて嬉しそうに微笑んだアンジェリークの耳元に、ジェイドは身体を屈めて唇を寄せた。
「でも……幸福の葉がなくても俺は十分幸せだって、君は知ってたかい?」
「……え?」
恥ずかしそうに頬を染めるアンジェリークをそっと抱きしめながら、ジェイドは幸せそうに微笑んだ。
「だって俺の側には……いつだって幸福の天使がいてくれるからね」