「こういうの『医者の不養生』って言うんだって」
ジェイドの言葉に、アンジェリークはまばたきを三度繰り返すと重い頭を微かに動かし、扉を閉めているジェイドの背を見つめた。
「そう……なんですか?」
「うん、ヒュウガが教えてくれた。彼の国のことわざで、『彼女は医者の卵だが、さすがに自分への治療は出来なかったんだな』って」
言いながらジェイドはトレーをサイドテーブルに乗せ、ベットの脇の椅子に腰かけると、アンジェリークの方に身を乗り出した。そして布団を口元まで引っ張って恥ずかしそうに身体を竦ませるアンジェリークの額に、手を伸ばした。
ジェイドの手はひやりとしていて、アンジェリークは一瞬びくりと身体を震わせて目を閉じたが、やがてその冷たさが心地よくなり、小さくため息をつくとそっと目を開けた。
「まだ熱があるね。なにかお腹に入れたほうがいいと思ってホットミルクを持ってきたけど……飲めそう?」
「あ……えと、そこに置いておいて下さい」
「やっぱり飲むのは無理?」
「いえ……私、ちょっと猫舌なんです。だから、少し冷まさないと飲めなくて……」
「あ、そうだったね。じゃあ置いておくよ」
「はい、すみません」
視線だけサイドテーブルに向けたアンジェリークだったが、ジェイドの手がまだ自分の額に触れていることが恥ずかしくて、熱で火照った頬を更に赤らめもごもごと呟いた。
「あ、あのジェイドさん……」
「ん? どうかしたの、アンジェ?」
「……あの、手……はずしてもらえませんか?」
「あ、ごめん」
ジェイドはようやく気がついたのか、ゆっくりと手を引くと、困ったように微笑んだ。
「君が一瞬、安心したみたいに見えたから。ごめん、いやな気分にさせちゃったね」
ジェイドの言葉にアンジェリークは驚いて目を見開くと、がばっと起き上がり、ジェイドを見ながら慌てて首を振った。
「そ、そんな! いやだなんて、そ、そんなことないですっ! そうじゃなくて、あのっ!」
だが熱がある状態で急に動いたものだから、次の瞬間クラクラとめまいを起こし「ふにゃあ」と小さく呟いたかと思うと、ふらりと再びベッドに倒れ込んだ。
「アンジェ!?」
驚いたジェイドが慌てて彼女を抱き留めると、アンジェリークは無意識に彼の腕を掴んで、その胸にもたれかかった。
「……大丈夫?」
「ふぇ……だ、大丈夫……で、す」
呟いてアンジェリークは、しばらくジェイドにしがみついていた。やがて目の焦点が定まり始め、ガンガンする頭痛が少しずつ治まってきたアンジェリークは、ほっと小さくため息をついた。
「少し、こうしてて……いいですか?」
「アンジェ……?」
「こうしてると冷たくて気持ちが良くて……ほっとするから……」
「……うん、いいよ」
ジェイドがうなずくと、アンジェリークは幸せそうな笑顔を浮かべ、彼の胸元に頬をすり寄せた。
頭の重みがようやく安定し、思考回路が活動を開始したとたん、アンジェリークは自分がどういう状態であるかを理解して真っ赤になった。そして顔を上げると、きょとんとした表情を浮かべるジェイドを見上げて、泣き出しそうな顔で叫んだ。
「ご、ごご、ごめんなさいっ! あ、あのわた、わ、私っ、その……っ!」
しばらく腕の中で慌てふためくアンジェリークを観察していたジェイドだったが、やがて表情を綻ばせると、サイドテーブルの上のマグカップにちらりと視線をおくった。
「ホットミルク、もう冷めたみたいだよ。飲む?」
「え?」
とつぜん話題が変わった意味がわからず、一瞬呆けた表情を浮かべるアンジェリークだったが、ジェイドはマグカップを手に取るとにこりと笑い、彼女の手にそれを渡した。
「君は冷たい方が好きだったんだね。わかった、今度は新鮮なフルーツジュースを持ってくるよ。でも今日はこれを飲んで。まずは身体の中を温めないとね」
「は、はい……」
ジェイドの顔をちらりと見上げたアンジェリークは、彼がまったく邪気のない笑顔を浮かべているのを確認すると、自分の手の中のマグカップに視線を移して、小さくため息をついた。
――そうよね。ジェイドさんはこういう人だもの。お見舞いに来てくれたのだって、飲み物を持ってきてくれたのだって……この人にとっては当たり前の行為。
この優しさは誰にでも向けられるもので、別に、私が特別だからってわけじゃない。
なのに私ったら、嬉しくて恥ずかしくて、ひとりで舞い上がっちゃって……馬鹿みたい。
熱のある頭で考えると、どんどん落ち込んでしまいそうで、アンジェリークはじわりと込み上げてきた涙を慌てて堪えてマグカップを口元に運び、こくんと一口温かいミルクを飲んだ。まだ温かくてほんのり甘いミルクが咽喉を通りすぎてから、アンジェリークは微かに首を傾げてジェイドを見上げ微笑んだ。
「とっても美味しいです。ありがとう、ジェイドさん」
「身体の中は温まった?」
「はい、ポカポカしてきました」
アンジェリークの答えにジェイドは微笑むと、彼女の手からマグカップを受け取り、サイドテーブルの上のトレーに戻した。
「そう、よかった。これでぐっすり眠れば、明日にはきっと元気になるよ」
「そうですね」
うなずいたアンジェリークはジェイドから視線を外すと、もぞもぞと身体を動かして掛け布団を引っ張り上げ、そそくさとベッドの中に潜り込んだ。
「皆さんにもご心配おかけしちゃってますね。もう大丈夫だって、お伝えしておいてください」
「うん、わかった」
ジェイドは軽くうなずいたが、部屋を出ていく気配は見せず、ベッドサイドの椅子に腰かけたまま、布団をきちんとかけ直したり、彼女が眠りやすいようにと枕の位置をずらしたりしていた。
「あの……ジェイドさん?」
彼が一向に部屋から出て行きそうにないので、アンジェリークは掛け布団を口元まで引き上げたまま、恐る恐る口を開いた。
「あの……そこにいられると……」
するとジェイドは一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに「ああ、そうだったね」と呟くとにっこりと笑い、布団の端から少しだけ覗いているアンジェリークの指先をきゅっと握ると、もう片方の手を彼女の額にそっと乗せた。
「ジ、ジェイドさんっ!」
声を裏返せて叫ぶアンジェリークを見下ろし、ジェイドは微笑んだまま、彼女の額をそっと撫でた。
「冷たくて気持ちがいいって言ってたから、君が眠るまでこうしていてあげるよ。少しでも、君の熱が吸い取れればいいんだけど」
こ、こ、こんなことされたらっ! よ、よけっ、よけいに熱が上がっちゃいますよぅっ!
心の中で絶叫するアンジェリークの声は、あいにくジェイドにはまったく届いていないようで。
更に真っ赤になるアンジェリークを見ながらジェイドは「なんだか……さっきより熱が上がってきたみたいだ。ミルクが熱すぎたのかな?」と心配そうに呟きながら、アンジェリークの手の平を改めて握り返した。
そして上体を持ち上げると、アンジェリークの上に覆いかぶさるようにして顔を近づけ、彼女の額に自分の額をこつんと当てた。
「やっぱり熱が上がってる。……アンジェ?」
熱やら恥ずかしさやら居たたまれなさがごちゃまぜになったアンジェリークは、とうとう目を回して気絶してしまっていた。
結局、アンジェリークの熱は二日後に下がった。だが風邪の熱は下がっても、それ以上に厄介な不治の病の熱は、それからずっと下がることはなかった。