幼子のように

 

「――レイン、今日も休まないの?」

夜食を届けにきたアンジェリークは、レインの部屋のドアを開けた途端、開口一番こう言いうと軽く眉をひそめた。

「どうかな……明け方には眠れるかもな」

そう言いながらも顔も上げないレインの後頭部を見つめ、アンジェリークは小さくため息をついた。

「でも、ベッドの上にこんなに書類がちらばっていたら、寝ようと思ってもすぐに寝られないわよ?」

「その時は、サルーンのソファで寝るから大丈夫だ」

「もぉ」

今度は呆れたように大きなため息をつくと、アンジェリークはトレイを手にしたまま、ゆっくりと部屋の奥へと入っていった。

床に散らばる紙やら小さな金属やら(おそらくは研究資材のアーティファクトなのだろうが、アンジェリークにとってはただのガラクタにしか見えない)を踏まないよう、足下を確認しながら窓際の机に歩み寄る。そしてレインの肩越しに腕を伸ばすと、机の上を占領していた本を片づけはじめた。

少し前だと、レインは途端に顔を上げて「悪いが触らないでくれ」と不愉快そうに眉をひそめたものだったが、最近は自分が見ている本だけは軽く動かすが、彼女の作業を止めることはなくなっていた。そうしてできたわずかなスペースに、アンジェリークは持ってきたアプリコットパイと紅茶をそっと置いた。

「紅茶は眠れなくなるかなって思ったけど、他に合うお茶がなくて―」

「サンキュ。目が醒めるほうがいいから、紅茶で構わないぜ」

本から目を離そうとしないレインの言葉に、アンジェリークは頬を膨らませると腰に手を当てた。

「レインったら、やっぱり休まないつもりね。ちゃんと眠らなきゃ駄目じゃない、昨日も遅かったんでしょう?」

「いや、たいしたことない。朝日が出る前にはベッドに入ったから」

「じ・ゅ・う・ぶ・ん遅いわよ」

拗ねたようにつぶやくと、アンジェリークはくるりときびすを返し、ベッドの上に乱雑にちらばった紙切れをひとまとめにして枕の上に置き、広くなったベッドの端にちょこんと座るとトレイを抱えた。

「……ねぇ、レイン」

「……ん?」

答えはしたものの、レインは振り返らない。その背中を寂しげに見つめていたアンジェリークは、すっと視線を床に落とした。

「この頃お話してないよね、私たち。お仕事も別々のことが多かったし、お夕食の時もあんまり降りてこないし」

「今日はちゃんと食べに行っただろ?」

「うん。でも、急いで食べて、すぐお部屋に戻っちゃったじゃない」

アンジェリークがぼそりと呟くと、レインはようやく顔を上げ、首だけで振り返った。

「なにかオレに話したい、特別なことでもあったのか?」

「そういうわけじゃないけど……」

小さく首を振ると、アンジェリークは眉尻を下げて唇をきゅっと噛みしめた。

特別なことなんかない――ただ、普通で当たり前の出来事を、いろいろ話したいだけ。なんでもない、ありきたりの時間を、レインと一緒に過ごしたいだけ。

黙り込んでしまったアンジェリークの姿をしばらく見つめていたレインだったが、やがて小さく溜息をつくと再び机に向かった。

「……10分、待ってくれ」

「え?」

アンジェリークは顔を上げ、レインの背に目を向けた。するとレインは背中を丸めたまま左手で自分の頭を軽く掻くと、小さく肩を揺らした。

「10分したら、たぶんまとめられる。だからそこで待っててくれ。その後、今までの分も全部、まとめて聞いてやるから」

「……レイン」

「今日の夜更かしは、研究じゃなくてお前の話に変更だ。それで、いいか?」

アンジェリークは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに相好を崩すと、レインが振り返らなかったのを後悔するような、とびきりの笑顔を浮かべてうなずいた。

「うん!」

 

「んーーーっ」

レインは小さく呻きながら、両腕を伸ばして天井を見上げた。じっとノートパソコンの画面を見つめていて固くなった肩と首を軽く動かしながら椅子を引いて立ち上がると、すっかり冷えた紅茶を一気に飲み干した。そしてカップを手にしたまま、ゆっくりと振り返った。

「悪い、アンジェ。待たせた、な?」

言ってそのまましばらく口を開けていたレインだったが、やがて口元に苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「なんだよ……寝ちまったのか」

レインのベッドの上で、片づけた紙切れを数枚手にしたまま、アンジェリークは上半身を投げ出すようにして横になっていた。数歩近づいてみても起きる気配はなく、すうすうと規則正しい寝息を漏らして心地よさそうに眠っている。

レインはアンジェリークの傍らに歩み寄ると、しばらく上から彼女を見おろしていた。が、やがて腰を屈めてアンジェリークの安心しきった寝顔を覗き込むと、ふっくらした頬を指で軽くつついてみた。

「ったく、子供みたいな顔して。……オレと話がしたかったんじゃなかったのか?」

――オレも、お前といろいろ話したかったんだけどな。

レインが小さく呟いた途端、アンジェリークが小さく身じろいだ。慌ててレインが指を引っ込めると、アンジェリークは目を閉じたまま、可愛らしい笑みを口元に浮かべた。

「レイン。あの、ね……」

呟くとアンジェリークは軽く寝返りを打ち、レインに背を向けてしまった。その背中を驚いた表情で見守っていたレインだったが、やがて照れ臭そうな笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がると、クローゼットに向って歩き出した。

中からコートを取り出すと、再びアンジェリークの元へと戻り、横になった彼女を包むようにそっと羽織らせた。

「これでも、かけてないよりはマシだろう? まぁ、お前が勝手に寝たんだから、風邪をひいてもオレの所為にするなよ」

そう言って部屋の入口に移動すると、大きな音を立てないように扉をゆっくりと開けたレインは、ちらりと後ろを振り返り、アンジェリークの背中を改めて見つめた。

――なぁ、アンジェ。

夢の中で、お前はオレに何を話しているんだ? オレはお前に、何を話している?

夢の中のオレは、どんな顔でお前を見てる? お前はオレに、どんな顔を見せてくれてるんだ?

そう考えたとたん、夢の中の自分に微かな嫉妬を感じたレインは、再び小さく笑った。そして扉の横のスイッチに手を伸ばすと、部屋の明かりを落として廊下に出た。

「おやすみ、アンジェ……夢の続きは、また明日な」

おわり