ささめゆき

(1)

凍える手を擦りながら障子を開け、墨色の空を見上げた蓮水ゆきは小さな溜息を零した。

「寒いはずね」

昨夜は見えた月が、今夜はなかった。鼠色の雲に覆われた夜空は星もなく、その代わりに白い花びらのような雪があちこちで舞っている。

「昨日はお天気がよかったのになぁ…」

自分たちがいた世界とは違い、この世界での暖房らしき物といえば、さきほど宿の女将が部屋に運んできてくれた火鉢くらいだ。ゆきは窓辺から視線を室内に戻し、部屋の中央で赤く燃える炭に目を細めた。そして両手を口元に添えてはあっと息を吐きかけてから、暖をとるために火鉢の方へと踏み出してから、ふと気がついて足を止めた。

「窓、閉めなくちゃ」

ふっと微笑んでから再び窓際に戻ったゆきは、障子の桟へ手を伸ばしたところで、中庭に視線を落としたまま動きを止めた。

「……桜智さん?」

そのまま中庭に佇む背中を見おろしていたゆきだったが、やがてわずかに眉をひそめるとくるりときびすを返した。そして窓の障子を開け放したまま、火鉢の脇を小走りに抜けて部屋を後にした。

 

「桜智さん…」

ゆきの声に振り返った福地桜智は、驚いたように目を見開いた。そしてゆきがすぐ目の前で立ち止まると口元を手で覆いながら、ほんのりと頬を紅色に染めた。

「ゆきちゃん……かい? 本物、なのだろうか?」

「…え?」

怪訝そうな声を漏らしたゆきが小さく首をかしげると、桜智はわずかに視線を逸らしてうつむいた。

「私の願望が生み出した幻かと思った…から。いま、君はどうしているだろうかと、空を見つめて考えていたんだ。寒さで震えてはいないだろうか、夜の闇に怯えてはいないだろうかとずっと考えていたから、そんな想いが募り過ぎて、君の幻を生み出してしまったのかと思って…」

ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ桜智をじっと見つめていたゆきだったが、やがて「ふふっ」と小さく笑うと、半歩前に踏み出して桜智の顔をのぞくように下から見上げた。

「私は本物ですよ。お部屋から外を見ていたら、桜智さんがお庭にいるのが見えたので降りてきたんです」

にこりと微笑んで桜智を見つめると、彼は顔を赤らめたままゆきをまじまじと見つめ返した。そしてほっとしたように小さく息を吐いてから、微かな笑みを口元に浮かべた。

「ああ、ゆきちゃん…。確かに本物なのだね? 君がまとう清らかで心地よい気は、間違いなくゆきちゃんだ…」

「はい。間違いなく本物の私です」

もう一度ゆきが微笑むと、桜智もまた安堵したように表情をゆるめた。そして微かに眉をひそめてゆきのほうへ手を伸ばしかけたが、その指はゆきに触れる前に動きを止めてゆっくりと降ろされた。

「だめだよ、ゆきちゃん。そんな格好では風邪を引いてしまう。さあ早く、部屋に戻って…君が苦しむところは、ほんの少しだって見たくはないのだから」

「それなら桜智さんも同じです。こんなところにいたら、風邪を引いてしまいます。一緒にお部屋に戻りましょう?」

「いや…私は……」

語尾を濁した桜智はゆきから視線を外し、どんよりと厚い雲を見上げた。

「もう少しだけ、ここにいたいんだ。君と同じ名の白い花に、もう少しだけ埋もれていたい…」

桜智は先ほど降ろした手を、再びゆるゆると持ち上げた。

「この雪は…まるで君のようだ。薄暗い闇にも、乾いた大地にも等しく降り注ぎ、白く美しく染めて浄化してしまう。けれど私の身は…」

そして舞うように降ってくる雪を手の平に受けとめ、手の平の熱で溶ける雪を見つめてから、寂しげに目を伏せた。

「どれほど受け止めようとしても、心から慈しもうと手を伸ばしても、雪は私に触れた矢先にこうして消えてしまうのだよ」

ゆっくりと顔を上げ桜智は、じっと自分を見つめているゆきに向かってそっと微笑んでみせた。

「だからね。私はもう少し、ここにいようと思う。この雪が私の罪深い身体を覆い尽くすまで…白く冷たくなって、私のすべてを浄化してくれるまで…ゆきちゃん、君を穢すことのない私になれるまで……私は、ここにいなければならないんだ」

言ってゆっくりときびすを返す桜智の背を、ゆきは呆然と見つめていた。しかしすぐに下唇を軽く噛むと、目の前にありながらいまにも消えてしまいそうな背中に両手を伸ばして、両の袖をきゅっと掴んでうつむいた。