「――攫ってしまえば、よかったものを」
知盛の口から漏れた言葉に、将臣の手がぴくりと反応した。月を見上げたまま、知盛はこちらを見ようともしない。
「そんな顔をするくらいなら……奪ってくればいい。傀儡のような男と、差し向いで酒を飲んでも……興ざめだ」
「お前には関係ないだろう」
吐き捨てるようにつぶやくと、将臣は手の中の杯をぐいっと飲み干した。すると知盛は室内に目を向け、苦々しい表情を浮かべる将臣を見て、ふっと口元に笑みを浮かべる。
「数多の武将を震え上がらせる還内府どのに、そのような愁い顔をさせるとは……さて、いかなる天女か。……あるいは、魔性の姫か」
知盛の言葉に、将臣はぎろりと上目遣いに彼をにらんだ。
同じ平家の中でも、彼のこの瞳の鋭さに臆する者も多い。だがここにいる、磨かれた太刀を思わせる青年は、その眼光にも薄い笑みを浮かべてみせる、数少ない一人であった。
「あいつは巻き込みたくない。いつも笑ってて欲しい。俺の側にいたら――あいつは笑顔を失くしてしまう」
将臣の言葉に知盛は杯を乾かし、ゆっくりとまた酒を注いだ。
「笑みがなくなったところで、構わんだろう。閨の中で存分に啼かせてやれば……いかな天女といえど満足する」
「俺はお前とは違う。とにかく、もう二度とあいつの話はするな」
そういうと杯を乱暴に置き、将臣は立ち上がって、宿の廊下へと出ていってしまった。
「仰せの通りに…兄上」
将臣の影に向ってそうつぶやくと、知盛はくっと笑い、再び夜空を見上げた。
「望美……か」
以前、酒を飲んで、珍しく昔のことを語りだしたときに、将臣の口から漏れた名前。
「望美がさ」
「望美のやつ」
「望美」
その名を口にするとき、将臣の表情は和らぎ、声音には愛おしさがこもっていた。
だから知盛は、見てみたいと思った。わずか三年ほどで実質平家の頭領となった男が、これほどに欲し、また失うことを恐れるとは、いったいいかなる女なのかと。
「満ちた月……なるほど、これほどに相応しい名はない、な」
人の願いをかなえるという、満月。
人の心を惑わすという、満ちた月。
「その名をもつ娘とは。さても兄上に……いや、我らに相応しきことだ」
――満ちたる月を名にしてまとう娘。そは、魔性なりて我らを喰らうか。
あるいは、恍惚なる楽園へと誘うか。
「どちらにしても――月を欲するは、人の性よ」
煌々と辺りを照らす月を見上げ、知盛はゆっくりと杯を重ねた。