「ねぇ、九郎さん」
素振りをしながら不意に、望美が口を開いた。
「なんだ?」
同じように正面を向いたまま、太刀を振り降ろした九郎が答える。
「さっき急に出てっちゃったの、どうして?」
「えっ?」
とつぜん話を蒸し返されて、九郎の手から太刀がぽろりと落ち、身体がぎしりと硬直した。そこで望美はすっと細身の剣を降ろし、半歩下がってから身体ごと九郎の方に向き直った。
「景時さんが入ってきたら、いきなりいなくなっちゃうんだもん。みんな、どうしたんだろうって心配してましたよ。景時さんなんか『俺の顔を見たくないってことだよな。なにかしちゃったかなぁ』って、すごく気にしてたし」
微妙に当たっているので、九郎は言葉に詰まって、かすかに頬を染めた。
「なにかわだかまりがあるなら、ちゃんと話し合ったほうがいいと思います。それがどんなことでも、話せば伝わることだってたくさんあるし」
「……けるわけないだろ」
「え? なに? 聞こえないです」
視線をそらしてぼそぼそつぶやいた九郎に、望美は近寄って耳を近づけた。
「ごめん、九郎さん。もう一回、言って」
「だからっ……けないと」
「え、聞こえない」
さらに近寄って、ぐいぐいと身体を押し付けてくる望美の身体から、景時のそれと同じ梅の香がふわりと立ち上り、九郎の鼻孔をくすぐった。と、九郎はいきなり険しい表情を浮かべ、驚く望美の肩をがしっと掴んだ。
「だからっ! お前と景時から、どうして同じ香りがするんだ? まさか昨夜!? なんて聞けるかって言ったんだっ!!」
真っ赤な顔をして、はぁはぁと肩で激しく息をする九郎の真剣な顔をしばらく見つめ、やがて望美はぷっと吹き出すと、口を両手で押さえてくすくすと笑いだした。
「な、何を笑ってるんだ!?」
「もーやだぁ。九郎さんったら、なに考えてるんですかぁ?」
「な、なにって…」
笑い続ける望美を見ながら、九郎は眉をひそめて怪訝な表情を浮かべた。
「昨日、庭の梅の花が綺麗だったって景時さんと話してたとき、九郎さんも居ましたよね?」
「あ、ああ」
望美が涙を拭いながら問いかけると、九郎は一瞬考え込んだが、すぐに小さくうなずいた。
「あれからすぐに屋敷に帰ったが。それがどうしたんだ?」
「あの後ね、私、朔と一緒にお香を作ってみたんです」
「香?」
望美はうなずくと顔を下に向けたまま、自分の襟元を右手でまさぐった。そしてするりと小袋のようなものを取り出すと、紐を手にしてぶらんと九郎の顔の前に持ち上げてみせた。
「……香袋か?」
「知ってるんですか? さすが」
「知識だけな。宮中の女性や公家連中はよく身につけていると聞くが、俺のように戦場を駆ける武者には必要のない代物だから、使ったことはないが」
「そういうとこは、同じ武家でも景時さんと違うんですね」
「景時は洒落者だからな。雅事やしきたりに疎い俺とは違う」
「ふうん」と感心したようにつぶやくと、望美は手にしていた香袋を九郎の鼻先に近づけた。
「香り、するでしょう?」
言われて改めて嗅がなくてもわかる。九郎が「梅だろう?」と答えると、望美は嬉しそうに笑った。
「初めて作ったにしては上出来でしょ? だからね、梅が散ったのを残念がってた景時さんにあげることにしたんです。屋敷に泊めてもらったり、京の町を案内してくれたり、いつもお世話になってるから、そのお礼にと思って」
そう言ってまたくすくすと笑いだした望美に対して、九郎は何と言っていいかわからずに、気まずそうに眉をひそめた。
「……笑い過ぎだぞ」
「だって…」
こんな状況では、何を言ってもただ墓穴を掘るばかりだ。そこで九郎は、望美の肩から手を放すと、数歩下がって腕を組み、わざとらしく顔をしかめた。
「だいたいだな。そもそも誤解されるような行動をしたお前が悪いんだぞ、望美」
「えーっ、なんでよ?」
「別に贈り物をしただけじゃない!」と気色ばむ望美を睨み、九郎は目を細めた。
「許嫁の俺を差し置いて、他の男に物をやったりするのは悪いことじゃないのか?」
「く、九郎さん?」
それまで詰め寄ってきていた望美は、九郎の『許嫁』のひと言に、ぱぁっと朱を散らしたように頬を染めて硬直した。反対に、思っていた通りの反応を引き出せたことに満足した九郎は、唇の橋をきゅうと持ち上げて笑った。
「もーっ、九郎さんってばずるいよっ! いつも都合が悪くなると、それ言うんだからぁ!!」
「何度言っても慣れないお前が悪い」
「そういう問題じゃないでしょう、もうっ!」
望美の動揺した様子を見て楽しそうに笑っていた九郎だったが、不意に手を空に伸ばして、何かをぎゅっと握りしめた。そしてそれを望美の前に降ろすと、握りしめた手のひらをゆっくりと開いた。
「……さくら?」
「ああ。風に乗って、早咲きの花びらが流されてきたらしいな」
「もう、そんな季節なんだ…」
梅の花が終わり、桜が咲きほころぶ。
人の想いも季節のように、幾度か巡るうちに変わっていくのだろうか。
しばらく黙って空を見上げていた望美は、やがて隣の九郎に視線を移した。
「ね、九郎さん。プレゼントあげましょうか?」
「ぷれぜ…なんだ、それは?」
「贈り物のこと。でも、目に見えないものなんだけどね」<
怪訝そうに首をかしげる九郎の手を握ると、望美はまた空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「今年も来年も、その先もずっと……九郎さんと一緒に桜を見るっていう約束」
「望美……」
「他の人にはあげない贈り物なの。特別に、九郎さんにだけあげる」
大好きなあなたと、大好きな花を。
これからも、ずっと一緒に……。
照れたような表情で望美の横顔を見ていた九郎だったが、やがて彼女と同じように空に視線を向けて、空いている手を天にかざした。
「……ありがたく受け取る」
ぽつりとつぶやいた九郎の言葉に、望美はにっこりと笑うと、九郎と同じように、思いきり腕を空へと伸ばした。