「……え?」
その言葉に思わず固まった秀吉から、桔梗は素早く手を引き抜くと佐吉を振り返った。
「佐吉の分も入っているのですが、秀吉殿が食べて無事だったらあなたも食べてみてくださいね」
「え…そ、それは順序が違います! 毒味が必要とあらば、まず私が……」
そう言って二人の方へ駆け寄ってくる佐吉に、桔梗はゆっくりと首を振った。
「いいえ、いけません。見たところあなたは、胃の腑があまり丈夫ではない質のようですから、お腹を壊したら大変ですもの」
するとそれまで固まっていた秀吉がゆっくりと腕を動かすと、顔を両手で覆ってがっくりと頭を足れた。
「ひどいぜ、お姫さんよぅ。純情な男心を玩ぶたぁ、あんまりじゃねぇか」
「玩んだなどと人聞きが悪いです」
「だってそうじゃねぇか。一度極楽浄土を見せといて、振り返ったその手で地獄に突き落とすような所行だぜ、今のはよぅ」
「お、大げさな……」
「大げさじゃねぇって。オレにとっちゃ、それっくらい衝撃が強かったってこった。あー、もう立ち直れねぇ……仕事もする気になれねぇ……」
大仰に首を振りながらその場にしゃがんだ秀吉は、足れた頭を両手で抱えて、わざとらしいほど深く長い息を吐き出した。
それは佐吉からしてみれば明らかに『仕事から逃げ出す方便』なのだが、だからといってこのまま放置しているわけにはいかない。問題を解決せずに桔梗を返してしまえば、それこそ秀吉は「傷心につき、しばらく留守にする」くらいは言い出しかねないからだ。
そこで佐吉は秀吉の隣にすすっと歩み寄ると、桔梗を見上げてから深々と頭を下げた。
「姫様、誠に勝手な願いだとわかってはおりますが、なにとぞ……」
佐吉の言外の意を理解した桔梗は、呆れたように目を細めたが、やがて小さく息を吐いてから、そっと腰を屈めて秀吉の顔を軽く覗き込んだ。
「秀吉殿……私も少し言い過ぎました。祝言云々は聞かなかったことにしますから、どうか機嫌を直して牡丹餅を食べてみてくれませんか? 私なりに一生懸命作ったというのは、その……本当ですから」
「オレのこと、想いながら作ってくれたのかい?」
「え? え、ええ……まぁ、そうですね」
「最初にオレに食べさせたいって、ちゃあんと思ってくれたかい?」
「はい。思いましたよ」
目を細めて桔梗が微笑みながらうなずくと、秀吉は様子を伺うように上目遣いに彼女をじっと見つめた。そして満足げな笑みを口元に浮かべるといきなり立ち上がり、桔梗の両手をまたぎゅっと握りしめた。
「そんじゃあお姫さんよ! せっかくだから、あんたが食べさせてくれないか?」
「は?」
秀吉の提案に桔梗は目を白黒させたが、復活した秀吉はそれをまったく意に介さず彼女の肩に手を回すと、ぐいぐいと部屋の中へ連れて行った。
「え、ちょ! 秀吉殿?」
「おぅい、佐吉。こっからはもしかしたらお前には刺激が強いことになるかもしれねぇ。だからよ、ゆっくり茶の用意をしてきてくれねぇか?」
桔梗の身体を捕まえたまま彼女の頭越しに振り返った秀吉は、意味ありげな笑みを浮かべてみせた。一瞬、主の言葉を理解できずに反射的にうなずいた佐吉だったが、はっと我に返ると、顔を赤らめて視線を落とした。
そんな佐吉の様子に桔梗は目を見張ると、秀吉の身体を押しのけながら慌てて口を開いた。
「佐吉、そのようなこと絶対にありませんから!」
「んな寂しいこと言わねぇでくれよ。オレぁ、またすねちまうぞ?」
「もうっ! 調子に乗らないでください!」
口を尖らせる桔梗にはまったく取り合わず、秀吉は「まぁまぁ」と笑いながら、改めて佐吉に向かって早く行けとばかりに手を振ってみせた。それに目礼をして下がった佐吉は一瞬ためらったものの障子を閉め、小走りに部屋を後にした。
姫の身を安全を思えば、あるいは障子を閉めない方が良かったかもしれない。だがそうしたところで、主が自制をするかというとそれはないだろう。
そんな失礼なことを考えながらも佐吉がその場を離れたのは、二人のやりとりにどこか通じ合っているものを感じたからだ。
秀吉はああいった性格だから、おそらく考えるよりも先に軽口が口をついて出てしまうのだろう。だから口にするほどの無体は働かないし、それがあの姫相手ならば尚のこと、彼女をほんの少しでも傷つけるようなことは絶対にしないと思えた。
そして桔梗姫の方も、確かに秀吉の言動に困ってはいるのだろうが、本当に嫌なのであれば近付かないという選択ができる立場にある。なのにこうして時折訪ねてくるということは、佐吉の主を心底嫌っているわけではないのだろう。
それに何より佐吉のような子供の眼から見ても、ああした二人の丁々発止する様は実に息が合っており、とても微笑ましく映っていた。何というか、気を許し合った者同士の仲の良いじゃれ合いのように見えるのだ。
それは佐吉だけが感じているのではないようで、城勤めの女房達や郎党連中がそんな話をしているのをよく聞くし、邸の使用人達に至っては「それで姫様は、いつお輿入れなさるのだろうね」などと期待を込めてしょっちゅう噂をしている有様だった。
「――もしも、万が一、姫様が秀吉様の奥方になられたら……なんとお呼びすればいいのだろう…」
台所へ向かう道すがら、佐吉は小さな声でぽつりと言った。
「やはり奥方様、かな。けれどあの方ならばきっと、堅苦しい呼び方ではなく名前でいいとおっしゃるだろう」
「……桔梗、さま」と小さくささやいた佐吉は、件の姫の柔らかい笑みを脳裏に思い浮かべたが、その途端に頬を紅く染めて何度も首を振ると、眉間にぎゅうとしわを寄せて足を速めた。