「秀吉さまーっ!」
叫んで少年は部屋の外に飛び出したが、そこには当然、部屋の主の姿はない。開け放った窓側の障子から顔をのぞかせても、庭にもやはり探す相手は見当たらなかった。
「……まったく。毎回毎回、なんて逃げ足の速い…」
呆れたようにまぶたを閉じて眉間を軽くつまんでため息をついた石田佐吉だったが、ふと眼を開けると表情を緩ませて廊下の方へ歩み寄った。
「ああ! これは桔梗姫様、ようこそお越し下さいました。ですがせっかくお渡りいただきましたのに、主の秀吉はただいま他出中でして……」
そう言って佐吉がゆっくり首を振ると、窓の桟をひらりと飛び越えた羽柴秀吉が部屋の中に転がり込んできた。
「いるいる! どこにも出かけてねぇよ! お姫さんが来てくれるってのに、オレが出かけるなんざ……」
満面の笑みを浮かべて佐吉の方へ勇み足で駆け寄ったが、目の前の廊下には誰もいない。小首を傾げて障子に手をかけ、上体を乗り出して左右を確認したが、やはりご執心の姫君の姿はどこにもなかった。
そこでようやく秀吉は眉をひそめ、隣で素知らぬ表情で立っている少年を見下ろしゆっくりと腕を組んだ。
「佐吉……主を騙すたぁ、いい度胸だな」
「嘘も方便と申しますから」
しれっと言って佐吉は手にしていた書簡を秀吉に押し付けると、秀吉の背後に素早く回り込んでその背をぐいぐい通し始めた。
「お、おいっ!?」
「お戻りになられてよかったです。お持ちしたのは一部ですが、これ以上書簡が溜まってしまうと後がさらに大変になりますので」
「え、まだ他にもあるのかよ? 勘弁してくれーっ!」
うんざりした表情を浮かべてぼやく秀吉を文机の前まで押していった佐吉は、秀吉の頭を見上げて口を開いた。
「ここで総て片付けてしまわれれば、明日はご自由にお過ごしいただいて結構です」
「っても、これからまた新しい書簡が届いたらどうすんだよ? それでも明日は自由に過ごしていいのか?」
ふてくされた表情で文机の前に腰を下ろした秀吉は、恨めしげに佐吉を見上げて口を尖らせた。すると佐吉はやけに大人びた表情で眼を細め、軽く鼻を鳴らすと腰に両手を当てて胸を反らした。
「そのようなわけにはいかないでしょう? その時はまた明日、処理していただくだけです」
「ですよねー。ああ、結局のとこ、オレに自由はないってことかい……」
がくりと肩を落として文机に突っ伏す秀吉を、佐吉は呆れたようにため息をついた。
「普段からこまめに処理なさっていれば、このようなことを佐吉も申しません。これに懲りて、しばらくは真面目に仕事を……」
「くそう、お姫さんの名を出すなんて卑怯じゃねぇか……佐吉の頭でっかちっ、嘘つきっ!」
「……童のような真似はお止めくださいませんか、秀吉様」
ひくり、と眉をけいれんさせて佐吉が言ったところで、廊下の向こうから足袋の擦れる音が響いてきた。佐吉が振り返ると、障子の向こうで頭を下げた女房がおり、それがちらと秀吉の背に眼を向けた。
「殿様。ただいま明智の姫様がお渡りになられましたが、いかが致しましょう?」
「ああ、それでしたら……」
「私が事情をお話しします」と言いかけて前に出た佐吉の袴の裾を、素早く振り返った秀吉は掴んで後ろに引き、よろめく佐吉の横をすり抜けて女房の前に這って進んだ。
「いかがもなにも、喜んで会うさ! さぁ、早いとこお通ししてくれっ!」
「かしこまりましてございます」
秀吉の楽しげな表情に吊られて女房は軽く笑うと、再び一礼して障子を閉じた。ぱたぱたと遠ざかっていく足音に調子を合わせて秀吉が鼻歌を歌い始めると、床に突っ伏していた佐吉がゆるりと顔を上げて秀吉を睨んだ。
「ひーでーよーしーさーまぁーーっ!」
「おう、どうした? そんなとこにひっくり返っちまって」
けろりとした顔で秀吉が言うと、佐吉は深いため息をついてがくりと頭を垂れた。しかしすぐに無言で起き上がると、秀吉の隣で正座をして口を開いた。
「どうしたもこうしたも、いまほど秀吉様に倒されたんですが」
「ああ、そうだった! 悪い悪い。いやぁ、お姫さんがほんとに来てくれたもんだから、つい興奮しちまってなぁ!」
からからと笑う秀吉を恨めしげに見つめた佐吉だったが、ご執心の姫の登場とあってはこれ以上仕事を強要することは無意味だと悟った。あとは出来るだけ早く穏便に姫にご退出願い、その後、今度こそ机にくくりつけてでも仕事をさせるしかない。
そんな剣呑なことを隣の小姓が考えているなど露ほども知らない秀吉は、わくわくそわそわと身体を揺らしていたが、とうとう待ちかねたのかすっくと立ち上がると佐吉が慌てて止めるのも聞かずに障子をがらりと開けて廊下に飛び出そうとした。
だが、そこにちょうど来訪者が到着していたものだから、二人はまさに出会い頭にぶつかって互いに悲鳴を上げた。