ヴァイオリンアイコン

歩調を合わせて歩いたら

 

夕飯の買い物の帰り道、曲がり角から見慣れた背中が現れたのを見つけた火積かなでは、ぱあっと表情を明るくすると、バックを両手で抱えて駆け出した。そして上背のある背中に手を伸ばしたのだが、小柄なかなででは腰に抱きつくのが精一杯だ。

「お帰りなさい、司郎くん!」

振り返った火積司郎が想像通りの驚いた表情を浮かべていたのが楽しくて、かなではふふっと小さな笑い声を立てた。

「ね、驚いた?」

「……ああ」

たっぷり数秒後に、火積はうなずいて小さく声を漏らした。そしてすぐに眉をひそめると、かなでの手から買い物の入ったトートバックを取り上げ左肩にかけた。

「あんま、走るんじゃねぇ。転んだらどうする」

「大丈夫だよ。あんまり大事にしすぎるとあとで辛いから、動けるなら少しくらいの運動はしたほうがいいんだって。それに、この道は慣れてるし」

「そういう油断が危ねぇんだ。慣れてるはずの学校から菩提樹寮への道で、派手にすっ転んだことがあっただろ?」

「そ、それって昔の話でしょっ」

言って真っ赤になるかなでに笑ってみせた火積は、右手をごく自然に伸ばしてかなでの手を取り歩き出した。

「それから、重いもん買うなら俺が休みの日にしろ。荷物持ち、してやるから」

「はぁーい、わかりました。――司郎くんって、意外と心配性だよね」

「あんたが、呑気すぎるだけだ」

小さくため息をついて見おろすと、かなでは正面を向いたまま首を傾げて「そうかなぁ…」と呟いた。

彼女が顔を動かすたびにさらさらと流れる髪は初めて会った時よりもかなり伸びて、今では肩を覆うほど長くなっている。

自分が子供っぽいのを気にして髪を伸ばすようになったかなでだったが、元々が童顔なものだから、ついこの間まで高校生に間違えられることがあったらしい。その度に不機嫌そうに口を尖らせたかなでから文句を聞かされていた火積だったが、ここ数ヶ月でそれもすっかりなくなった。

「お腹が大きくなったから、さすがに間違えられないのかも」と呑気にいうかなでだったが、火積はそれだけではないと思っている。

『――なんつぅか安定期に入ってから、身体付きとか雰囲気がやけに色っぽくなったっていうか……こんな色気、高校生にはとうてい出せねぇよ、な』

そんなことをぼんやり考えながらかなでの横顔に見とれていると、不意に彼女がこちらを振り向いた。驚いた火積はなんとなく後ろめたくて視線を軽く逸らしたが、かなでは昔と変わらぬ笑顔を浮かべて見せた。

「そうそう。昼間ね、お義母さんが枝豆を届けてくれたの。だから今度の日曜日にずんだ餡でお菓子作ってみようと思うんだけど、なにかリクエストある?」

「べ、別に。あんたが作るもんなら、なんでもかまわねぇ」

「もぅ、司郎くんいつもそれなんだもん。羊羹とかケーキとか、なんでも頑張っちゃうつもりなんだけどな」

「羊羹って……そんなもんまで、作れんのか?」

「うん。この間、八木沢さんに教わったの」

久しぶりに聞いた名前に、火積は懐かしげに目を細めた。

日々仕事に追われる火積と違い、かなではいまも時折八木沢雪広の実家の和菓子屋に顔を出しているらしい。そのおかげもあって、今も火積家と八木沢との交流は途切れることなく続いている。

「八木沢さん、久しぶりに司郎くんにも会いたいって。今度、時間をつくって一緒に会いに行こうよ」

「ああ、そうだな」

尊敬する先輩の穏やかな表情を思いだした火積が目を細めたところで、かなでもなにか思いだしたらしく「あっ!」と小さく叫んでから、繋いだ火積の手をくいっと軽く引いた。

「ねぇ、狩野さんに連絡するの忘れちゃってたでしょ?」

「……連絡?」

怪訝そうに眉をひそめると、かなでは「もぉっ」とすぼめた口を軽く尖らせた。

「八木沢さんのお店で偶然会ったんだけど、私のお腹見て、狩野さんすっごい吃驚してたよ」

言われて思い当たることがある火積は、気まずげに視線を逸らした。別に忘れたわけではない、意図的に連絡しなかったのだ。

『あの人のことだ。冷やかしてきたり、趣味の悪ぃ名前選んできたりと、いちいちうるせぇだろうし』と思い、事後報告するつもりだったのだが、まさかこんな経路からバレるとは思わなかった。

「狩野さん、『どうせあいつのことだから、おれに知られると冷やかされたり変な名前押し付けられるんじゃないかって面倒がったんだろうけど、だからって水臭いよな』って言ってたよ」

似ていない狩野の口まねをするかなでの言葉に、火積は思わずため息をついた。なんのかんのと言いながら、やはり高校時代の先輩は自分のことを良くわかっているらしい。

「でね、せっかくだから今度皆で集まってお祝いパーティしようって話になったんだけど……大丈夫かな?」

「俺はかまわねぇが……けど、祝いってのは普通、産まれた後にするもんじゃねぇのか?」

いまのかなでの話の流れでは、まるで今日明日にでも集まって騒ごうと言わんばかりだったから、火積は怪訝そうに眉をひそめて彼女を見おろした。するとかなでも彼の心情を察したらしく、困ったように眉をひそめて口元に微かな笑みを浮かべた。

「うーん、私もそう思うんだけど……でも久しぶりに皆と会えるきっかけになるなら、前でも後でもいいのかもって」

「そういうもん…か」

「うん。そういうものだよ」

言ってこくりとうなずくと、かなでは改めて火積を見上げ、屈託のない笑顔を浮かべて彼の手をきゅうっと握りしめた。

「それにね、私、久しぶりに皆のアンサンブルが聞きたいな。それからこの子にも聞かせてあげたいの」

火積が微かに目を見張ると、かなでは視線を自分の膨らんだお腹に落とし、愛おしげに目を細めた。

「これがあなたのパパの音だよって。こんな素敵な音色を奏でる人が、あなたのパパなのよって教えてあげたい。だから、この子が産まれてくる前に皆に会いたいな」

「かなで……」

出会った頃と同じ、相変わらずのんびり屋でほわほわしていると思っていたのに、いま火積の隣にいるかなでの横顔は『大人の女性』というよりすでに『母親』になっている。

それがなんだか不思議で、火積はまじまじとかなでを凝視していたのだが、その視線に気がつき顔を上げたかなでとばっちり目が合うと、なにやら今さら照れ臭くて思わず視線を背けてしまった。

するとかなでは火積の赤くなった頬をじっと見上げていたかと思うと、やがてくすくすっと楽しそうな笑い声を漏らした。

「ふふっ……『火積くん』のそういう顔、久しぶりに見ちゃった」

「…………勘弁してくれ。その呼び方、なんか昔に戻ったみてぇで……すげぇ照れる」

言いながら所在なげに頭を掻く火積を、かなでは幸せそうな笑顔を浮かべて見つめ続けた。彼女の暖かい視線を感じながら火積はますます顔を赤らめると、初めて会ったころと変わらない小さくて柔らかな手を強く握りしめ、足を速めた。

「……早く帰るぞ。いつまでも冷たい風に当たってんのは、身体に良くねぇ」

「はい、わかりました。――お父さん」

軽やかなかなでの声でそう呼ばれ、火積は赤みが引かない顔を隠すように小さく咳払いをした。

おわり